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「二番目の死体はこっちです」
 ゆるい潮風は血臭を覆い隠せはしなかった。もうひとつの茣蓙の下にあるものがいま自分の足元にあるものとおおよそ同じだろうことは明々白々で、ゼールマン・ミラドニアにはむしろ、それを指さす新米団員の青褪めた顔が気がかりだった。
「吐くなら向こうで吐けよ、マーカス。現場を汚すな」
「いや、大丈夫で――…」うっぐ。新米団員の喉仏が彼の意志とは無関係に痙攣する。
“やれやれ”ゼールマンは苛立ちを堪え、部下の背中をさすってやった。白みはじめた明け空にすでに虫どもの姿はなく、前後の曲がり角では行きがかりの人々が造船通りの裏路地を覗き込んでいる。彼ら彼女らはこれから工場で夜勤と交代する人足たちだとか、あるいは仕事を終えてねぐらに戻る娼婦たちだとかだ。口さがない彼らの世間話の種に、このうえさらに“街警団シティ・ガードが死体見てゲロった”などという醜聞を付け加えられるよりは、子供の面倒を見るように背中を撫でてやるほうがマシというものだ。
「収まったか?」
「――はあ。す、すんません。隊長」
「もういいから、お前はそこで見張りに立ってろ。職人たちには他の道を使ってもらうように言え。新聞記者ブン屋が来たら絶対止めろ。――キール、どうだ?」
「こっちもやっぱり、ナイフか何かでしょうねえ」
 二番目の茣蓙をめくりながら、もう一人の部下が言った。キール・ウェインストは傷痍した元軍人であり、前線にいた時間が長いぶんゼールマンよりは死体を見慣れている。彼は欠けた左手を収めたグローブで犠牲者の目蓋を閉じてやりながら、「滅多刺しですよ、滅多刺し。酷ぇもんです、まったく」と呟いた。
“まったくだ――ほんとうに、まったくだな”
 ゼールマン・ミラドニアは厳しい顔のまま二度頷いた。
 鼻を刺激する臭気と眼を刺激する赤い色。マーカス新米が嘔吐しかけたのも無理はない。ゼールマン自身、己の胃が不気味にひくつくのを感じている。もし朝食を早めに済ませていたら、あるいは昨日の酒を痛飲の手前で控えていなかったら、自分こそキールに背中を撫でてもらっていたかも知れない。
 まだ朝とも呼べないような初春の夜の終わり。泡を食った魚屋の女将の通報を受け駆けつけた街警団たちが眼にしたのは、それくらい酷い亡骸が二つだった。
 呼吸を整え、はらに力を入れ直し、ゼールマンは二番目の死体に正対する。数歩も離れていない路傍の影に転がる一番目と同様、その四十がらみの男の全身のいたるところに、軽く十は下らぬ刺し傷がついている。
“即死だったろうな。……しかし、こいつは……?”
 事件が起きたのは深夜のようだ。もうすぐ新霊節の時分とはいえ、夜の寒さは彼らから急速に温度を奪ったに違いない。傷口からの流血もずっと前に止まり、衣服と石畳をじゅくじゅくに染めて赤い輪を作っている。ゼールマンは男の顔に視線を向ける――こっち二番目あっち一番目も、人相はあまり良くない。というか、むしろこの凶行の犯人であっても何の不思議もないくらいほど荒くれた印象を受ける。纏うのはあくまでも町人風の胴着、しかしそれに似合わない頑丈そうなブーツ、股引の腰を汚す黒い粉は単式銃の火薬だろうか。
“やくざの抗争?”
 ゼールマンの脳裏にそんな推測が過ぎり、
「コイツら、ペジルテの運び屋ですよ」キールがまるでそれを裏付けるように呟く。「それも俺の記憶が正しけりゃ、御禁制の武器だとか、クスリだとか、その気になりゃあ人間だって運ぶような連中です」
「……厄介だな」
「ええ、厄介です。あそこはマヤトの“オニ”の連中と違って、下っ端の統制をわざと取らない。そんでいざ問題を起こしたときにゃあ、知らぬ存ぜぬで押し通そうとしますからね」
「とはいえ、こちらが黙っておくわけにもな――」言いかけて、ゼールマンはふと顔を上げた。
 血臭の篭る薄暗い路地に、いつのまにか、白い立ち姿が加わっていた。
 子供だ。







 その矮躯はゼールマンの胸元にも満たない。痩せているというよりはまだ成長しきっていないといった雰囲気の白衣の背中。裾の端からは柔らかそうなふくらはぎが覗いている。その子供は襟足で切りそろえられたこげ茶色の頭髪をうつむかせ、石畳の上に横たわる一番目の死体をじっと見下ろしていた。
「――こら、ガキが入ってきちゃ駄目じゃないか」
 娼婦相手に聞き込みの真似事をしていたマーカスが慌てて戻ってきて、その子供の華奢な肩を後ろからぐいと掴んだ。
「帰っていいんですか?」
 振り返った男の子はマーカスではなく、ゼールマンの方を見ながらそう言った。まだほとんど声変わりすら迎えていないような、澄んだ声で。
 なんだこいつは――と言いたげに口元を尖らすマーカスの肩を、今度はゼールマンが掴む。街警団の隊長は部下を睨んで「俺が呼んだんだ」と厳しい口調で言い放ち、それから少年に向けて、まるでとりなすように笑いかけた。「すまんな、トゥエル君」
「おはようございます、ゼールマンさん」少年はむっつりしたまま挨拶を返した。「でもやっぱり、帰るほうがいいんじゃないかと思いますよ」
「や、そう言わんでくれ。……レイケイ氏は?」
「先生がこんな朝早くに起きてるわけないでしょう」
「ま、そうだろうな」ゼールマンは最初から期待していなかったように肩を竦める。男の子は小さな鼻を小さく鳴らし、それから足元の死体にちらりと視線をやって、言った。
「カティおばさんの話だと『怪我人が出てるかも知れない』っていうことでしたけど。でも、もう手遅れじゃないですか。一応断っておきますけれど、死んじゃってる人の世話は僕らの仕事じゃありませんからね」
「まあ待ってくれ、トゥエル君。せっかく来てもらったんだ。門外漢の俺たちだけでなく、君にも見てもらったほうが何か新たな手がかりが得られるかも知れん。――だから、な。すまんが頼むよ。レイケイ氏にはあとで俺から礼を言っておくから」
 隊長さんにそこまで言われると断れないですね――男の子はそう呟いて、胸の前で略式の魔除けの印をさっと切る。しゃがみこむと白衣の裾がめくれて、半ズボンの膝小僧が剥き出しになった。その姿だけを切り取るならば、ちょっと育ちの良い上街の小僧のようにしか見えない――ただし彼が顔色ひとつ変えずに検分しているのは、アリの巣穴や野良猫などではなく、全身にいくつもの刺し傷を拵えた悪漢の惨殺体なのだった。
「キ、キール先輩。なんなんすか、あのこまっしゃくれのガキは?」
 後ろに下がって隊長と子供の遣り取りを眺めていたマーカスが小声で訊ねる。“なんて生意気なガキだ”とその不満顔に書いてある。ついでに、“俺が隊長にあんな口聞いたら速攻でぶん殴られるのに”とも。しかしキールは袖を掴む後輩の手を振り払い、拳骨をその脳天にあててグリグリとしながら、「ガキと言うな。トゥエルだ――トゥエル・ジャック。いや、むしろお前みたいな新入りはトゥエルさんとお呼びしろ」と言った。「彼と彼の先生にゃあ、俺ら第七支隊はみんな世話になってるんだ」
「世話になる、って……」
 脳天の痛みを堪えながら、マーカスはますます不信げに呟く。その視線の先で、驚くほど小さな背中が横臥する死体をまさぐり、あちこちに開いた傷口を確かめている。
「――ひどいですね」
 数分後、ようやく顔をあげたトゥエル・ジャックはそう言った。まったくだ、と街警団の隊長は割れた顎を上下させ、「どう見る?」と少年に訊ねる。
「僕は探偵じゃありませんよ」
「だが、医者ではあるだろう?」
「――医者見習いです」トゥエルは口元を尖らせながらそう訂正した。それから、ふと真面目な顔つきになって、「……変だ、って言わせたいんですね」と呟いた。
 ゼールマンは肩を竦めた。
「まだ我々も、ここに到着したばかりでな。事態を把握しきってはおらん。……しかし、これらの死体がどこか奇妙なのは確かなのだ。だから君の口から気付いたことがあれば、どんなことでも聞かせてもらいたい」
 そして男は少年に向けて、頭を下げた。
 この展開に、マーカス・ギドラはぽかんと口を開くことしか出来なかった。配属されてまだ一週間と経っていないが、その短いうちに遅刻したといっては殴られ、制服が乱れているといっては殴られた。下流地区の街警団シティ・ガードという閑職のわりに、ゼールマン隊長が口やかましく、体面を気にするタイプだということは理解しているつもりでいた――その男が、ほとんど息子と見紛うような年齢のガキに対して、恥も外聞もなくあんな態度を取るなんて。
 果たしてトゥエル・ジャックは、こう答えた。
「彼らが殺された場所はここです。それは間違いないです。どこか別の場所で刺されて運ばれてきたり、刺した相手から逃げ出してここで息絶えた、という可能性もありません。彼らを殺傷した犯人は、相当の返り血を浴びたみたいですが……」
「そりゃ、返り血くらい浴びるだろうさ」気付けば、マーカスは横合いからそう口を挟んでしまっていた。「それに、こんなに何箇所もブッ刺したら、逃げるも何もなく即死するだろ」
 偉そうに講釈垂れて下さらなくたって、そんなことくらい俺にもわからあ――本当は面と向かってそう言ってやりたいところだったが、ゼールマンとキールから同時に睨まれたためにその悪態は飲み込まざるを得なかった。
「はい、即死だったでしょう」しかしトゥエルは、別段気にした風でもなくそう頷く。「こっちの死体とそっちの死体。どちらが先に殺されたかはわかりませんが、同じ凶器で、同じように殺されている。悲惨さはともかく、ここまでは、おかしいところはありません」
「だからなんだよ?」
「ゼールマンさんがおかしいと感じているのは、多分こういうことでしょう?
 ――犯人の足と手の数が合わないんですよ
「……は?」
 疑問符を浮かべるマーカスの横で、ゼールマンがぽんと手を打った。「ああ、なるほど。そういうことか」
「ちょ、ちょっとどういうことなんですか、隊長」
「見ろ、下だ」ゼールマンは自らの足元を指差す。まだ薄暗い早朝の路地、清掃の行き届いていない石畳の上に乾ききらない血の痕跡がいくつも残り、それは彼から見て下手の方向へ点々と続いていた。
「ああ……、現場ここに着く前に、隊長が辿ってった足跡ですね。って、でも、確か海に飛び込んで消えてたとか言ってませんでしたか?」
「うむ、――すぐ近くに、小便中に転落したという老人が漂着していたが……いや、それは関係ない。そのじいさんの服には返り血のひとつも無かったからな。とにかくだ、マーカス。この足跡は何人分だ?」
「……二人分、か……多くて三人ですかね?」
「一人だ、血痕が派手に飛び散ってるせいで多いように見えるがな。――つまり俺らが到着するまでの間、この死体に接触したのは一人だけしかいなかったということだ」
「じゃ、そいつが犯人で?」
「まあ、それは間違いないだろうが――」
 ゼールマンはそこまで言って、後を託すようにトゥエルのことを見下ろした。ふぅ、と軽い溜め息をひとつ――少年は仕方なさそうに言葉を引き取る。
「もし、犯人が単独だったとするなら……これらの死体に刻まれた傷はすべて、その一人の手によってつけられたことになります。ざっと数えただけですけれど、そちらの死体には十四箇所、こっちの死体には十六箇所の傷口がありました」
「だから?」
「そうですね……たとえば、あなたがキールさんと夜の街を巡回していたとして」トゥエルは元軍人の男にあらかじめ謝意を示すような目配せをし、「もしそのとき、突然キールさんが暴漢のナイフに刺されたとしたら、どうしますか?」
「そりゃあ、助けようとするに決まってるだろ」とマーカスは胸を張り、
「もしくは何も出来ずに固まって見ているだけか」とゼールマンが指摘し、
「あるいはチビって逃げ出すかだな」とキールが笑った。
 なんスかもうそんな意気地の無いマネしませんよ、と憤る新米団員を宥めながら、少年は話を続ける。
「時と場合にもよりますが、まあ、だいたいそのみっつに絞られるでしょう。けれど今回、あとから殺されたほうの人は、少なくとも逃げ出しはしなかった。あるいは逃げ出すことも出来なかった。それからこれは推測ですが、あまり抵抗も出来なかったんじゃないかと思います。彼らの爪の隙間には皮膚や髪の毛の痕跡もありませんでしたから」
「では、ぼうっと見ていたわけか」
「仲間が十五回近くも刺されるのを、ですか?」
「む……」
「刺すのに一秒。引き抜くのに一秒。それが十五回で、ざっと三十秒。普段、喧嘩なんかしない僕ならともかく、荒事に慣れていただろうこの人たちがそんなに長いこと傍観しっぱなしでいただなんて、ちょっと考えられません」
「いや――わかったぞ、こうだ!」マーカスが胸の前で手を打ち叫んだ。「最初の一撃で片方を動けなくしたあと、もう一人を滅多刺しにして、それから戻って一番目のほうをへ止めを刺しまくったんだ。ほら、これで辻褄は合うじゃないか!?」
 しかしトゥエルはすぐに首を横に振る。
「確かに辻褄は合います、が……一回の刺突で、相手を瞬時に絶命させられるような技能を持った人間が、こうまで執拗な追い討ちをかけるでしょうか? キールさんは気付いているでしょうが、多分これ、何の訓練も受けていない人の犯行だと思いますよ。骨の位置も臓器の位置もおかまいなしだ。手馴れた人なら、まずこんな刺し方はしません」
「ああ、その通りだ。それに、これは俺の見解だが」軍人あがりの男は、昔を思い出すような遠い目つきで補足を述べた。「こんな風に殺しすぎるのは、初陣の歩兵によくあることだ。――誰だって最初は、どのくらい刺せば死ぬのかわからんからな。だから何度も刺すんだ。相手がもう起きてこない、って確信が得られるまで、何度も、何度もな」
 トゥエルは確認するように頷き、言った。
「恐らくは前科の無い、少なくとも軍隊などで訓練は受けたことの無い人間の犯行。……ここまではいいです。ただ、どうしてもわからないことがあって……」
「なんだ、まだあんのか?」
 マーカスがうんざりしたように訊ねると、少年はまた膝を屈め、死体の傷を指差した。
「たとえばここと、ここを見てください。どちらも正面から切っ先を突き込まれた傷です。でも……右肩の下の傷は浅くて広いですが、こっちの、左の肋骨に入った傷は深くて狭いんです」
「つまり、凶器がひとつではないということか?」
「…………」
 まだ一度も髭を剃ったことのないトゥエルの口元が、気難しげにしかめられる。彼は質問をしたゼールマンを見上げ、それからあまり自信のなさそうな口調で、「――少なくとも、四本かそれ以上です」と答えた。「両手に一本ずつとか、そんな話じゃありません。どれも諸刃で、果物ナイフくらいの刃渡りの、似ているけど違う凶器が四本以上。……ちゃんと測ればもっと正確なことが言えるんですけれど……」
「……じゃ、何人もで取り囲んで嬲り殺しに……って、あ……」マーカスは自分の手で自分の口を塞いだ。
「はい。犯人のものであろう足跡は、一つだけです」
 街警団の三人は押し黙り、あらためて路地裏の光景を眺めた。凄惨な事件現場であることに変わりはない。しかし、少年の眼によって汲み取られた情報の数々が提示されると、そこにはあらためて、なんとも名状しがたい違和感が加わるのだった。
 ゼールマンは顎をさすりながら言った。
「ろくに訓練も積んでいないであろう人間が、共犯者もなしに、どうやってこんな殺し方をしたのか。何故複数の凶器を使用したのか。それらはどこへいったのか……ううむ。言葉にしてみると、なるほど奇妙だ。動機もこれから調べねばならんしな」
「わからんことだらけッスね」
「だなあ」
 マーカスがぼやき、キールが肩を竦める。 少年の見立ては果たしてあっているのか、あるいはそうでないのか。転がる死体たちは何も語らない。ただ彼らの亡骸に刻まれた異様な傷跡が、複雑怪奇な気配を孕む事件の裏を予感させるのみである。
 立ち尽くす男たちの間に、陰鬱な空気が漂いかけ――
「全部の疑問を、いっぺんに解決する方法がありますよ」
 ――白衣の少年は、不謹慎にならぬ程度の明るさを声に含ませてそう言った。
 ゼールマンは首を傾げて問うた。
「どういうことだ、トゥエル君?」
「簡単です。皆さんが犯人を捕まえて、締め上げちゃえばいいんですよ。どうやって殺した、どうしてこんなことをやらかしたんだ――ってね。そうすれば全部判明するじゃないですか。そうでしょう?」
「――……」
 その言葉を聞いた街警団の男たちは互いに視線を交し合い、それから一斉に、くっ、と笑いの発作を堪えるような顰め面になった。言われるまでもない――自明の理だ。自分たちに期待されるのは治安維持であり、つまりそれは、こんな事件を起こす凶悪犯を捕まえるということだ。動機や殺害方法、隠された事情を暴くことなどは極論、そこに付随するおまけのようなものでしかない。この少年の本質が探偵ではなく、医師の卵であるように。
「……ふぅん」
 死体についての問答をゼールマンと続けるトゥエルを横目に見つつ、マーカスはひとつ頷く。その新米の街警団は照れたように鼻の下をこすり、キールに向けて小声で言った。「どうして先輩や隊長があんな子供に敬意を払っていたのか、わかった気がしますよ」
 あのこまっしゃくれた態度は確かに気に入らない。だがしかし、あの度胸や医学的な知識、観察眼などはなかなかのものだ。年長者として、そこは認めてやらねばなるまい――
「いや、全然わかってないと思うぞ」
「え」
 キールはしかし、マーカスのその納得をあっさりと否定する。
「お前が勘違いするのも無理はないんだが。……実際、あいつの大したところは、ちょっとばかり頭が良いとか、あの年齢で医者の真似事が出来るとか、そんなことじゃないからなぁ」
 じゃあ何だっていうんですか――とマーカスが口を開きかけたところで、その闖入者は事件現場の路地裏に踏み入ってきた。
あんちゃあぁぁあん!!」
 ――いや、突進してきた
 ゼールマンは素早くトゥエルを背に庇い、キールが闖入者を正面から押さえつけ、マーカスも慌てて加勢する。
あんちゃん、兄ちゃん、兄ぢゃぁあんんッ!」
 見ればそれは三十絡みの、ある種独特な風体をした大男だった。丸く剃った胡麻塩色の頭髪。ぎょろっとした真っ赤な瞳。喧嘩か何かで潰したのだろう、べっちゃりした鼻がたるんだ顔に張り付いている。上半身に纏うのは薄汚れた馬革のベストのみであり、籐の芽のような臍が厚い脂肪の上で震えていた。
「こら、なんなんだお前は!」
 男の耳に直接吹き込むような距離でマーカスが問い質す。錯乱気味の男は一向だにしない――が、前歯の欠けた口から迸る叫び声を聞くまでもなく、彼が被害者たちと同類の筋者であることは明らかだった。
「くそ、止まれ! おいマーカス、ちゃんと押さえろ!」
 見た目以上の膂力、あるいは火事場力の為せる業か、大男はキールとマーカスの二人をずりずり引き摺って突進してくる。まるで屠殺されまいと抵抗する豚を見ているかのようだ。その勢いは、このまま路地を越えた先の海に落ちるまで止まらないのではと思わせるほどだったが――
「兄ちゃ、ん……、」
 ――しかし彼が血だまりに伏せるものたちを認識した瞬間、それは唐突に終わった。
あんぎゃああああぁァッッ!!!」
 絶叫とともにべしゃりと崩れ落ち、男の身体はキールたちの下敷きになる。
 そのまま、彼は泣き始めた。
 ぎゃあぎゃあと、人目をまったく憚らない、まるで乳飲み子のような――それも巨人の赤子のような、この区画に住む人々の全員が目を覚ましてしまいかねないほどの大音声で。
「…………」
「関係者のひと……みたいですね」
 戸惑い気味のトゥエルの呟きは泣き声に掻き消され、傍らのゼールマンにしか届かなかった。街警団の隊長は己が足元、耳を押さえることも出来ない部下たちの困り顔を見下ろし、そっと溜め息をつく。そしてこれからやらなくてはならないことを頭に羅列する。
 聞き込み。目撃者探し。犯人の足取りの追跡。
 こんな死体をいつまでも晒しておくわけにはいかない。
 非番の連中が応援に来るまでにはあと三十分といったところ。
 市議会は勿論、ペジルテの奴らにも話をまわさなくてはならないだろう。
 被害者の身内らしきこの男を詰め所までしょっぴいて、事情を話させる……が、そのためには、とにかくこの大泣きを止めてやらなくてはならない。
 ゼールマンはもう一度溜め息をついた。
 ――まだ一日は始まったばかりだ。






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