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 クライブ・ヨレンはアルコールの類を好まない。いくつかの要素――下戸ではないが明確に強いと胸を張れるほどでもない体質、繊細な味の違いなど分からぬ貧乏舌、ついでに例の堅物な性格が相俟って、普段から意識して飲酒を避け続けている。規律の徒たるMPが酔って自制を失うなど許されないことだし、煙草や麻薬についてもそうだが、中毒を起こすくらいなら最初から服用しなければいいというのが彼の持論なのだ。
 が、今はそんな主義主張よりも、いっそ二日酔いの苦しみにのた打ち回りたい気分だった。
 安宿の個室にはすでにいくつものエールの空き瓶が転がっている。まだ日も暮れてないうちから酒に耽るなど、人生で初めてのことだった。
“いや、それを言うなら――”
 クライブの意識はすでに何十度目か知れない後悔に沈む。――黎明の空と海の色。港に到着寸前のレイセニア号。間に合わなかった己の手。派手にあがった水しぶき……その直前、彼に向けられた、尻を剥き出しにした初老の男のそれは晴れ晴れとした笑顔。
“あと十秒、いや五秒でも早く気付けていたら――”
 船上ではあれほど嘔吐を繰り返していたくせ、海へと落ちたランカニスは鰓鬼マリフもそこのけの、実に達者な泳法を披露してのけた。というか、あまりに最初の潜行が長かったために、クライブ含めレイセニア号の甲板から海面を見守っていた者たちは全員、老人がそのまま溺死したのではないかと疑ったほどだ。
“あのとき、阿呆のように眺めているだけでなく、自分も海へ飛び込んでいたなら――”
 レイセニア号が橋桁を下ろしたのは大型の倉庫や工場が入り混じる商業地帯で、大型の貨物船が停泊出来るよう、岸壁の埋め立てや整備などもかなり進んだ区画だった。船長たちへの別れの挨拶もそこそこ、下船した降りたクライブは積荷を担ぐ水夫たちの間を駆け巡ってランカニスを探した。だいたいの方角は見当がついており、まるで海坊主が引き上げられたような水溜りの痕跡もすぐに見つかったものの、そこからふらふらと下町へ向かった濡れた足跡はいくつかの小路を曲がったところで、ぷっつり途絶えてしまったのだった。
“――それこそ、魔法を使ったみたいに!”
 クライブは喉を逸らせてグラスの中身を流し込む――不味い。それは単にこのエールが安物だからというだけではない。もしこれが何かの祝いの席なら、そして気の置けない友人と一緒だったなら、安酒だろうと色水だろうと笑って呷ることが出来るだろう。しかし今のクライブの気分は最低だ。入隊して以来、いや士官学校時代を通じて犯した一番のミス。胸に渦巻く後悔の念。脱力するような遣る瀬無さ。
 それから何より、相伴している相手がまた最悪なのだった。
あんちゃん……兄ちゃん……兄ちゃあぁん……」
 クライブの目の前では、彼より一回り年上であろう中年男が大きな身体をぎゅっと縮こまらせ、文字通り泣き伏していた。
「……兄ちゃんたちはさあ……。そりゃ、怒りっぽいとこもあったけどさあ……でも、いい兄ちゃんたちだったんだよおぉぉ……」
 掠れきった涙声で、すでに何度目か判らぬ故人の自慢話を繰り返すこの男――名を、ドロッグ・ソーヴォという。
 見知らぬ街を足が痛くなるまで駆け回り、ついにランカニスを完全に見失ったことを認めたクライブは、悄然としたまま最寄の街警団シティ・ガードの詰め所へ立ち入った。もちろん探し人を依頼するためではない。アーヴィタリスに到着したら、ここに足を運ぶことは当初の予定の一部だったのだ――ただしハリス課長宛ての定期連絡に、『監察対象が失踪しました』などという失態を報告する破目になるとは露ほども思っていなかったが。
 果たして上司から返ってきた電報は、彼らしい冷徹な罵倒と、“見つけ出すまで帰ってくるな”という当然の指令だった。
 ここで、クライブ・ヨレンは途方に暮れることになる。
 ランカニスが消えたのは大陸随一の巨大都市だ。その人口は百万とも三百万とも言われ、何の伝手もなく男一人を見つけ出すなど不可能としか思えない。
 電信装置を借りたこの街警団はアーヴィタリス市議会の下部組織であり、その市議会はサンクタリス連邦王国の下部組織である。だから形式だけでいうなら、国軍MPはアーヴィタリス街警団の上に立つことになる――のだが、そこには連邦制ゆえの複雑な力関係が働いていた。そもそもアーヴィタリスのあるマルセア貴族領が併合されたのはたった三十年ほど前のことだ。アトラ山地を挟んだこちら側の沿岸一帯は未だ自立的な気風が強く、首都からの距離の遠さも相俟って、彼の軍服に縫い付けられた青い牙ブルートゥースの威光もほとんど効果を示さない。漂着戦争以前からアーヴィタリスの治安を守り続けてきた街警団たちにとってみれば、サンクタリスは近年加わったスポンサーのひとつ程度でしかないのだ。
 それでもクライブがもう少し世慣れていて、もう少し面の皮が厚かったならば、詭弁でもハッタリでも使って協力を無理強いしたかも知れない。しかし折りの悪いことに、ランカニスの消えたあたりの区画を担当する街警団第七支部は今朝発生した凶悪な殺人事件のせいできりきり舞いな状態だった。そんな中で、己の失態を埋めるためにこちらに人手を割かせるようなことは、状況的にも心情的にも不可能だったのだ。
“しかも、『魔法使いを探せ』だなんて、まさか言えるわけがないじゃないか?”
 そして――クライブ・ヨレンがドロッグ・ソーヴォと出会ったのはその日の昼下がり、街警団第七支部の、狭い玄関を出たときのことだった。 実のところクライブは、この泣き虫なチンピラ中年のことを以前から知っていた。といってもそれは通された休憩室で電報の返信を待っている間ずっと、隣の取調室からの怒号と泣訴が薄壁を震わせていたからなのだが。
 あのとき自分が何と言って彼に声を掛けたのか、酔いの回りはじめた今のクライブは思い出すことが出来ない。どっちにしろあまり深いことを考えての行為ではなかったことには違いない――なにせ朝から取調室で泣き叫んでいたこの男が、ランカニスの行方を知っているわけがないのだ――が、とにかくあのときのクライブは藁にも縋るような思いだったし、何でもいいから行動を起こさなくては気が済まない精神状態だったのだ。
「おぉい、軍人さんよお! 聞いてんのかよお! あんちゃんはなあ、兄ちゃんはなあ!」
 ――それがまさか、こんなことになろうとは。
 使い古された椅子とベッドがひとつあるきりの安宿の一室。ドロッグという男は毛羽立った毛布をぐしゃぐしゃに掻き抱き、かれこれ数時間、同じ話を何度も何度も繰り返している。“兄ちゃん”たちがどんなに良い男たちだったか、彼らを喪った自分がいかに悲しんでいるか、そしてあんな惨い殺しをした犯人を、どれほど許しておけないか。
「――わかった。わかったよ」
 暗鬱とした心理状態と、それに追い討ちをかけるようなひどい同伴者。今の自分にはたとえシープガル産のビンテージワインだったとしても、消毒用アルコールのように不味く感じられてしまうに違いない。
 木椅子の背もたれにぎしりと身体を預け、クライブは尋ねる。
「で、あんたの知り合いの情報屋――“蛇の舌ベロ”とかいっていたか? そいつは本当に、頼りになるんだろうな?」
 結局のところ、彼が今の状況を我慢しているのは、それ 。 。目当てなのだった。
 クライブとて、このドロッグという男が堅気でないことくらいはわかっている。こいつの風体ときたら、あの柄の悪いレイセニス号の船員たちがまだ真っ当だったと思えるくらいだ。ついでに脈絡の無い話のそこここからは、彼の“兄ちゃん”たちが真っ当な商売をしていなかったであろうことも察することが出来た。
 規律の守り手であるミリタリーポリスの端くれ、廉直と遵奉を骨の髄まで叩き込まれたクライブ・ヨレンにとっては、こうした人間に好意を持つことは難しい。もし犯罪の証拠があったなら、今すぐ街警団の詰め所へ連れ戻して、拘置室にぶち込んでやりたいくらいだ。
 が、しかし――
「あぁ、あぁ。間違いねェよ。“蛇の舌ベロ”の奴のところには、このあたりのスラムとか花街の噂話がみぃんな集まってくるんだ。……アイツならきっと、兄ちゃんたちを殺した奴の手がかりを掴んでいるに違ぇねェ」
「……で、その蛇とやらの店は、陽が沈むまでは開かないんだな?」
「っだら、さっきから何度もそう言ってるじゃねェか。同じコトを何回聞くんだい、軍人さんよう」
 ドロッグが憮然として答える。
 どうやら思った以上に酔ってしまっているらしい。クライブはこめかみを押さえ、薄汚い天井を仰ぐ。そしてあらためて回想する――自分とこの中年チンピラの間で成立した交換条件。
 ドロッグは、クライブを情報屋のところまで連れて行くこと。
 そしてクライブは自分の分に加え、ドロッグの分の“尋ね賃”も肩代わりしてやること。
 正直、あまり釣り合いが取れた条件だとは思わなかった。褒められた手段だとも思えなかった。しかしそれでも、声をかけた最初の一人から手がかりを得られたのは幸運だと、あのときは思えたのだ――
「じゃあ、じゃあさぁ、軍人さんよ。今度は俺の話を聞いてくれよ。あれは去年の夏のこと、兄ちゃんたちと俺とでさ――……」
“……地道に聞き込みでもしてたほうが、まだマシだったんじゃないだろうか?……”
 かすかにカビの臭いのする椅子にもたれながら、クライブ・ヨレンはまるで、泥の海へとずぶずぶ呑まれていくような気分を味わうのだった。


          ▽    ▽    ▽


「おら! 起きろよ、軍人さん!」
「ッ!?」
 突然の激痛がクライブを襲い、咄嗟に身体を起こそうとした彼は椅子からずり落ちて目を覚ました。ドロッグが掴んでいたのは彼の肩だったが、その大きな手が乱暴にこちらを揺すってくるたび、まるで脳みそを直接叩かれているような痛みが突き抜けてきた。
「あ、ああ――起きた。起きたから」
 ほとんど前後不覚の状態で、まずは振動の元となっている男の手を外させる。ようやく揺れが収まっても、頭蓋骨の中で鐘が鳴るかのようなその激痛はしばらく続いた。
 クライブは振るえる指で懐中時計を引っ張り出し、オイルランプの薄明かりに眼を凝らす。
 ……日付が変わって、既にかなり過ぎていた。
「うッ、」
 しゃくりあげるような声が肺腑の底から漏れる。ネジを巻くのを忘れていたかと一瞬思い込みたくなるが、周囲に転がる酒瓶とこの頭痛を鑑みれば、何が起きたかは明白だった。
 寝過ごしたのだ。
「くそっ!」
 ほとんど発作的に床へ拳を叩きつけた。衝撃が再び脳の芯まで突き抜ける、が、己への罰としてはまだまだ足りないくらいだ。“何をやってるんだ、自分は!”今朝から、いやもう昨日の朝か、いやこのアーヴィタリスに着いてからか、とにかく考えられないような失敗を連続してしまっている。“監察対象にまんまと逃げおおせられた挙句、酔っ払って眠りこけるなんて――無駄にしておける時間などないというのに!”
 クライブはもう一度床を殴ろうとする……、が、
「……んじゃ、そろそろ行こうかい」
 己に業を煮やす青年の内心などまるで気付かぬ様子で、ドロッグはヒョイと立ち上がった。あれだけ浴びるように酒を食らっておきながら、こちらはまったく二日酔いなど縁遠い様子だ。むしろ泣くだけ泣ききって、多少すっきりしたような印象さえ受ける。
「は――?」
「何てツラしてんだ。しっかりしてくれよ。案内する約束だろ、情報屋」
 ぽかんと口を開けるクライブに向け、ドロッグは呆れたように言った。「いや、しかし……」
 軍人の青年は視線で窓の外を示す。安宿の三階の個室、ヒビの入ったガラス、汚れたカーテンの隙間からは、真っ暗な曇り空だけが覗いていた。
「ああ、大ジョブだ。“蛇の舌ベロ”の店なら、まだまだこれからッつう時間だからな」
「だが――」
 釈然としないながらも、とにかくクライブはドロッグのあとに続いて宿の階段を下った。服はすでに私服へと着替えている。彼が部屋を取った〈良き風のはじまり〉亭は港のそこら中にある酒場兼宿屋のひとつで、一階から漂ってくる空気にはバクの煙と酒の臭いが濃く混じり、それから荒くれた騒ぎ声や歌声が聞こえていた。
“こんな時間に、随分と元気の良いものだな――”
 クライブは頭の片隅でそんな感想を抱く。
 そして彼らが酒場へ降りてくるとすぐに、「あれ、お客さんたち、お出かけ?」と、染みだらけのエプロンをした小柄な娘が声をかけてきた。年の頃はまだ十二か十三かそこらだろう。濃紺の髪を邪魔にならないよう頭の後ろで束ねており、手には大きな木製のジョッキを三つずつ、計六つも抱えている。彼女は少し気の強そうな感じのするアーモンド形の瞳で、クライブたちのことをじっと眺めた。
「あー、うん。ちょっと、湯気に当たりになあ」ドロッグが曖昧に答える。
 するとその給仕の少女はいきなりフンと鼻を鳴らして、「あっそ。行ってらっしゃい」と無愛想に言う。それから思い出したように、「……で、うちの部屋はどうするの? 今日も泊まるならそのままにしとくけど?」
 宿代は前金で、充分に多めに支払ってある。それもこれも、泣き喚く中年のチンピラなどという厄介な同伴者が横にいたためだ。怪訝な顔をした女将を懐柔するために渡した金額は、この安宿なら一週間かそこら寝泊りしても釣りが来るほどだった。
「そうしておいてくれ」
「わかったわ――まあ、ごゆっくり
 青年に対しても、少女はあくまでもツンとした調子を崩さずに頷く。クライブがもう一言付け足そうとしたところで、奥の調理場から怒鳴り声が放たれた。
「エニー! ぼやっとしてないで、さっさとそっちの皿もさげちまいな!」
「はいよう!」
 その給仕娘は酒場の男たちの喧騒に負けない、通りの良い声で返事をすると、こちらのことなどまったく忘れたように、ぱたぱたと駆けていった。
「…………」クライブは呆気に取られたようにその小さな背中を見詰め、
「ほら、行きますぜ」ドロッグが焦れた口調で彼を促した。
 浮かれ騒ぐ男たちの間を横切りながら、クライブはもう一度懐中時計を確認する。針は変わらず、深夜の一時過ぎを指している。こんな時間に酒場が繁盛しているのも驚きだが、あんな子供が平気な顔で働いているのもまた驚きだった。少なくとも彼の知っている限りでは、どんなに遅くまで営業している盛り場でも日付の変わりを目安に閉まるものだ。アーヴィタリスというこの街――あまりにも多くの人間が集う場所では、比例して皆が宵っ張りになるとでもいうのだろうか? いや、それにしても……
 そしてクライブ・ヨレンが本当の驚きを味わったのは、〈良き風のはじまり〉亭から一歩外に出た、そのときだった。
 足が止まった。言葉を忘れた。前を行くドロッグの背中も、老若男女と客引きの溢れる通りも、何もかも視界から消え失せた。 彼は大きく眼を見開いて、ただ頭上を仰ぎ続けた。
「おのぼりさんはみんな、そんな風に驚くんだぜ」ドロッグがニヤニヤ笑いながら言った。「夜光蟲ニュクスフライ――ってぇんだ」
 男の言葉は、けれどもクライブの耳にはほとんど入っていなかった。二日酔いとはまた違う感覚に眩暈を覚えつつ、彼が思い出しているのはレイセニス号の甲板、まだ未明の街を眺めていたとき、ジョン船長がぽつりと放った一言だった。『そういう街なんだよ、あそこはな。――眠らないのさ』
 クライブは今、その言葉の意味を遅ればせながら理解した。無理もない、当然だ――夜がこんなに眩しかったのなら、眠れるはずがないではないか。
 実際のところ、その蟲の大きな翅から放たれるのはオイルランプよりも少し明るいくらいの青みがかった輝きで、太陽はおろか、膨みかけた月にも敵わない程度の光量しかなかった。しかし夜光蟲は街路に均等に並んだ鉄柱一本ごとに十数匹が集っており、蛾や羽虫が松明などに惹かれるように柱と柱の間を飛び回っていた。その無数にも感じられる青白い光が舞い散る様子は、まるで街のすべてが照明されているような錯覚を青年に与えた。
 錯覚。違和感。驚愕、あるいは恐懼。太陽が沈んだ時間――夜とは暗いものだ、という、生まれてこのかた疑うこともなかった常識に罅割れが走る感覚は、それらを掛け合わせてもまだ足りないほどの衝撃となって彼を襲っていた。クライブは生まれてはじめてサーカスに連れてこられた子供のように首をのけぞらせ、食い入るように頭上を眺め続けた。
「……そこまでびっくりするようなもんかい? 便利でいいじゃないか」
 青年の驚き顔にも飽きたのか、ドロッグはそれだけ言うと、彼に背を向けてすたすたと歩きだした。今は兄貴分たちを殺した者の手がかりが欲しくて仕方ないのだろう。また見失う破目になったらたまらない。クライブも慌ててその後を追った。
 夜も更けて久しいというのに、賑やかさを保っているのは〈良き風のはじまり〉亭だけではなかった。駆け回る幼子おさなごらの姿はなくなっているものの、酒精にあてられた人々の声の陽気さは昼間に比べてもなんら遜色は無い。繁華通りに連なる酒屋の数々、軒の下に収まりきらなかった人足たちが長椅子の上にそこらの屋台から買い集めた黒ソーセージやら魚のパイやらを並べ、即興の宴席を作っている。
 彼らの歩く繁華街は湾口部の商業地区と、そこに勤める人々の住む住宅区の間に、まるで緩衝帯のように広がっていた。もちろんそうした区画には厳密な仕分けがしてあるわけではないし、アーヴィタリス全体の拡張とともに港は伸び、民家はあとからあとから増えていったものだから、似たような、けれども趣きの違う繁華街はここの他にも数箇所に点在している。
 だがそんな街の事情など知るはずもないクライブの眼には、雑多極まる夜の市場通りの光景があるがままに飛び込んでくる。
 肉、魚、チーズ、菓子パン、種類を問わない食べ物の屋台の数々。挽きたてのコーヒー豆の香ばしい匂い。時代遅れな曲を弾き語りする吟遊詩人。舶来のアクセサリーを陳列した土産物屋。暗がりにうずくまる猫の瞳のまたたき。
 四階建ての集合住宅の狭いテラスでは、若い女が夜泣きする子供をあやしながら通りを見下ろしている。何かの倉庫と思しき大きな鉄扉の前に露店商人が茣蓙を広げ、麦藁を編んで作った籠や帽子をうず高く並べている。
 月が細かろうが曇が掛かっていようが、これだけ明るければランタンなど必要ない。テラスに立つ女の物憂げな顔も、露店の売り物に張られた値札の数字も、何の労もなく見て取ることが出来る。
 青白い光に照り映える、夜の街の人々の姿。
 彼ら彼女らと肩をすれ違わせながら、しかしクライブはどこか現実味の薄さ、夢見心地のような茫漠さを感じずにはいられなかった。それは頭の中にまだ残るアルコールの仕業だけではなかった。
 道行く人々は全員、夜光蟲の灯りを太陽や月のそれと同じ、ごくありふれたものとして享受している。自分のようにむやみに頭上を気にしたり、ひらひらと舞う羽ばたきに合わせた陰影の移り変わりに見惚れる者は誰もいない。アーヴィタリスの市民にとってはこれが日常で、平生で、常識なのだ。
 場に溶け込めないでいる己を自覚するとともに、青年はふと、軍学校の厩舎長をしていた老人のことを回想した。
“ゼラム爺さんは、電信装置には幽霊が取り憑いていると不気味がっていたっけ”
 遠く離れた場所への伝達は馬の脚が届けるものと長年信じ込んできた老人にとっては、機械から機械へ瞬時に信号を送れるからくりなど、それこそ魔法や呪いのように思えただろう。
 培ってきた常識を覆される衝撃。未知なる事象に触れた驚嘆――今なら少しだけ、あのときの老馬丁の心情がわかる気がする。
 ただ彼と違って、クライブはこの青白い光のことを不気味だとか、空恐ろしいだとかは思わなかった。最初の驚きが過ぎてしまえば、むしろ前向きな好奇の心が刺激されるのを感じるくらいだ。それは一重に、その灯りに映し出される市場の人々の表情が、みな活気あるものだったおかげだろう。“成り上がり都市”の急速な発展、そしてかつてないほどの好景気の経済が、まるでこの夜の喧騒に顕在化されているかのようだった。
 もしこれが、観光か何かだったとしたら――いや、二日酔いの痛みとランカニスの失踪の件さえなかったならば、もう少し楽しい気分でこの街を眺めることが出来たのだろうか。そう考えると、自分でも意外なくらい残念に思えてくる。
“――ランカニス。そうだ、あいつのことを見つければいいんだ”
 クライブは思考を切り替える。見聞や行楽など、それからでも遅くはないはずだ。
 自称魔術士のあの男の手がかりを求め、いま自分が案内されている情報屋――確か、“蛇の舌べろ”とかいったか。これまで裏稼業の人間と接触した経験がないため、情報屋というのがどのような店構えをしているのかクライブは知らない。ただ以前帯同した学者の垂れていた薀蓄によれば、蛇のシューシューと舌を出すあの仕種は、周囲のニオイの成分を嗅ぎ取るためのものらしい。その情報屋の名前もおそらく、そうした逸話が由来となっているのだろう。あたかも知恵の象徴とされる蛇のごとく、鎌首もたげて情報を収集する――というわけだ。
 しかしドロッグの立ち止まった場所は、クライブのまるで予想していない店の前だった。
「情報屋――本当に、ここが?」
 青年は思わず鼻白む。『湯気にあたりに』と聞いたあの給仕の少女がいきなり無愛想になったのも当然だと思う。中年のチンピラに導かれてたどり着いた繁華街の奥、路地裏に聳えたレンガ造りの大きな建物、〈サウナ・リトルピーシャ〉という洒落たレタリングの看板。それは風呂屋だった。ただし公共浴場ではない、男性客専用の――つまり、一種の娼館だったのだ。
「いらっしゃい、お兄さんたち。おふたりかしら?」
 店の前に数秒立ち止まっただけで、しなをつくった客引き女が素早く腕を絡めてくる。
「おい、ここでいいのか?」このままでは本当に物見遊山になりかねない。ぐいぐいと肘に押し付けられる柔らかい感触に焦り、クライブは繰り返し尋ねる。
「ああ、そうだよ。言わなかったっけか?」
 そう答えるドロッグのほうも、既にもう一人の客引き女に腕を引かれていた。明らかにそわそわとし、前かがみになってよろぼい歩く彼の姿はどう見ても廓遊びに来た好色男の風情なのだが、いまさら置いていかれるわけにもいかない。青年も仕方なくその後に続いた。
 戸口にかけられたキャベツシューの葉のような厚布を潜り抜けるとすぐに、甘ったるい香水の匂いと熱く湿った空気に迎えられた。社交室には大きな革のソファーが部屋の壁沿いにぐるりと設えられていて、そこでは簡単に脱がせられそうな薄着だけを纏った女性たちが四人ほど寛いでいた。
「貴方、見ない顔ね。うちの店ははじめて?」
 最初にクライブの腕を取った赤髪の女が、とびきりの上目遣いでそう訊ねてくる。青年は思わず口ごもる。『うちの店』はおろか、どのような『店』でさえも初めてだ。女の瞳を避けた視線が薄暗い社交室を彷徨った。足の短い黒曜石のテーブル、朱と桃色の酒瓶、小さな銀の杯、花柄模様のランプシェード、没香を炊く陶器の壷。奥には狭い通路と階段、それから、いくつもの個室風呂の扉が並んでいる。挙句にそちらからは時折、艶かしい謎の声が聞こえてくる。クライブは立ち眩みを禁じえない。目に映るもの全てがまるで、市場のそれとは別種の引力を発している気がする。
「ね、誰かお気に入りのコはいるの? なかったら、私と――」
「タ、タンジー」裏返った声がそこに割り込む。ドロッグはどもりながらその女の名を繰り返した。「タンジーだ。タンジーのところに通してくれ」
 そしてそのチンピラは、服の袖を肩口まで捲り上げた。がさついた二の腕の皮膚には、極端に大きな鋏を持つ蟹の焼印が刻まれている。
「――……」
 途端、クライブは、肘に押し当てられていた感触が遠ざかるのを感じた。二人きりになるまでは決して離すまいとしていたような拘束はあっさりほどかれ、見ればその場にいた女たちの顔から、すべての笑みが消え失せていた。
「……わかってるね、奥から二番目の部屋だよ」
 ソファの上座で煙管を咥えていた年長の女が、はじめてそう口を開いた。
 ドロッグは緊張した顔でひとつ頷き、そのまま社交室の先の通路へ進む。クライブは内心安堵しつつそれについていった。――どうやら今の目的は蒸し風呂ではないことを、ちゃんと忘れないでいてくれたらしい。
『奥から二番目』の扉は他のものと同じ、何の変哲も無い樫の戸板だった。しかしその室内でふんぞり返っていたのは女郎ではなく、いかにも廓の用心棒でございといった感じのごつい男だった。その逞しい右腕は威嚇的な斧槍ハルバードに絡み、腰には実用的なショートソードが吊るされている。彼は凄みのある視線でクライブたちを一瞥すると、長椅子から立ち上がって踵を返し、そして背にしていた側の壁を押した。――すると重い音ともに、壁全体が横にずれていく。男の威圧的な雰囲気に飲まれてまるで気付かなかったが、どうやらそちらは隠し扉になっていたらしい。
 そして壁の向こうに現れた空間は、新しい部屋ではなかった。外への出口でもなかった。
「なッ……」
 その光景に、クライブは瞠目する。
 奥行き一メートルほどの、床の抜けた空間。そこにあったものは――三つの鉄の檻だ。
 形状としては、それは円形の鳥かごによく似ている。ただしこちらはもっとずっと細長く、格子の鉄棒も頑丈そうだ。床だけでなく天井も抜けており、太い鎖によって吊り下げられている。
 人間ひとりが立ったままでようやく収まるような、座ることも出来ないような細長い檻。それが三つ。クライブは同じものを、娼館などよりもっと相応しい場所で見たことがある。有体に言えば、これらは処刑場にある、罪人を晒し上げにする用途の檻にそっくりだったのだ。
 用心棒の男は部屋の壁を走る伝声管に向け何事か囁くと、それから檻の戸を開けて「乗りな」とそっけなく言った。
 青年は一歩も動けない。たとえ上官からの命令だろうと、“檻に入れ”と言われてほいほい従えるわけはない。しかしどこか切羽詰った表情をしたドロッグはあっさりと、右の檻に乗り込んでしまった。大男の体重を受け止めて鉄の鎖はぎしりと揺れ、格子の隙間からは腹の肉が窮屈そうにはみ出している。
 それを見て、仕方なくクライブも中央の檻に進んだ。――もとより、ここまで来て引き返せるはずはないのだ。
 用心棒の男は慣れた手つきで鍵の錠を閉じる。ガチャンという硬質な響きが、まるで罠の閉じた音のようにクライブには聞こえる。隣室からの嬌声は小悪魔の笑い声のようだ。
 程なく、鎖の擦れる音ともに、檻はゆっくりと降下を始めた。
 たちまち視界は闇に包まれる。寸毫の先すらも見通せぬ真の夜色。足元から立ち昇ってくる湿った熱気。閉所恐怖症なら発狂間違いなしの狭い空間。煙突掃除の子供たちはこんな気分なのかも知れないと唐突に思う。
“もしかして――地獄の底にでも送られるのではないか?”
 次に自分の足が触れるのは海水か、あるいは灼熱の溶岩か。偶然出遭ったこのチンピラが信用出来るなどと誰が決めたのか。実はドロッグは一から十まで芝居をしていて、首都から派遣された軍人を体よく始末するためにここに誘き寄せたのではないか。
 檻は真っ暗闇の中を降下していく。緊張のあまり時間の感覚が狂い、数十秒を数十分にも錯覚する。どんな井戸の底も古城の地下牢も、これほど深くにまで達することはないだろう。一体どこまで降ろされるのか。このままでは本当に、想像の産物でしかない“地獄”へと行き着いてしまうのではないか……
 恐怖が喉元から溢れそうになったとき――突然、目の前に天使が出現した。
 狭い檻の中では尻餅をつくことも出来ない。クライブは息を詰めて眼前の壁に彫られている“羽根もつ人間”のことを凝視した。
 鉄の檻が彼を運んだ場所は、まるで塔の内側のような細長い空間だった。暗闇の縦穴を抜け、天井部分から檻が突き出しても未だ底らしきものが見えない。そしてその円筒形の部屋の内側すべてには、巨大な壁画――いや、壁の表面を削った彫刻がびっしりと刻まれていた。クライブが最初に眼にした天使の像はそのうちの一部でしかなく、檻が降下するに従って彼は様々な装飾美を眼にすることになった。
 海原を埋め尽くす巨大帆船の群れ。
 未知の様式によって築かれた神殿や城塞の数々。
 山のごとき悪鬼の姿と、その手前に立ち塞がる槍と鎧で武装した人々。
 それらの彫刻はあまりにも精巧で、芸術というものに特別の造詣を持たないクライブにさえ奥行きや色彩などを感じさせるほどだった。
「――悠久の時を経ようとも――人と人の営みは――些かも変じることはない――」
 低い声が、檻の向かう先から聞こえた。 クライブは穴の底へと視線を下ろした。
「――これらの壁画が遥か昔――“教会”の成立以前に彫られたものだといったら――君は信じられるかね?――」
 業火に焼かれる都市の像の前に……一人の男がいた。
 恐ろしく太った、禿げ頭の奇怪な人物。その体重は少なく見積もっても二〇〇キロを下るまい。自分では立ち上がることも出来ないのではないかと思うほどの巨躯を、柔らかそうな白いソファに沈めている。クライブを乗せた檻は彼から十歩ほど離れた位置で止まった。
 ――あなたが、
 喉が掠れ、音にならなかった。
「あなたが、“蛇の舌べろ”なのか?」
 言い直したクライブに、太った男はニヤリと頬たぶを歪ませて答えた。「蛇の巣へようこそ、MPの若者よ――」
 その返答に心臓が跳ねる。制服も軍刀も、身分を示すようなものは〈良き風のはじまり〉亭に置いてきたままだというのに。
 何故こちらを知っているのか――直前まで発せられかけた問い掛けは、今度はクライブ自身の意志によって押しとどめられた。
 彼は情報屋なのだ。
「……この部屋は、一体なんなんだ?」
 入れ替わりに、どうしても捨て置けない疑問を太った男にぶつける。円形の部屋の底には出入り口など見当たらない。“蛇の舌べろ”の身体はどう考えてもこの檻型の昇降機には収まらない。どんな井戸よりも深い地下に、果たしてどうやってこんな部屋を作ったのか。あれらの彫刻は誰が掘ったのか。そもそも何故、娼館の真下にこんな施設が存在しているのか?
「――それが――君の求める情報なのかね――」
 男がそう問いを返し、クライブは押し黙った。慣れない“作法”に歯噛みしかかる。彼が情報屋だと感じたのはつい今しがたのことだ。そして情報屋であるならば、こちらからの質問に対して答える言葉はすべて“売り物”であり、対価を求むるべき“商品”なのだ。準備した資金はそう潤沢とは言えないし、その元を辿れば国民の血税である。単なる好奇心を満たすために、迂闊な質疑応答を繰り返すわけにはいかない。
 がらがらと、重い音が頭上から響いてくる。遅ればせながら、ドロッグを乗せた檻が“蛇の巣”へとたどり着いたようだった。
「――やあ、ドロッグ・ソーヴォくん――。オーガルくんたちのことは、お気の毒だったね――」“蛇の舌べろ”は傍らから差し出された卵を齧りながらそう言った。豪華なソファベッドにうずくまる彼の巨体の脇には美しい女が侍っており、給仕のために掲げた右手が空になると、彼女は膝元の盆からまた新しい卵を取り出して、優雅な挙作でそれを剥きはじめた。
「気の毒なんてもんじゃあねえよ、蛇のダンナ!」ドロッグは檻の格子を掴み、吠えるように言った。「ああっ、可哀想なあんちゃんたち! あんなに体中を串刺しにされちまって、どれだけ痛かったんだろう! どれだけ悔しかったんだろう! そう思うだけで、俺は、俺はッ!」
「――わかった、わかった――。それで、今夜君が求める商品は、一体何かね?――」“蛇”の眼が垂れた目蓋の下で瞬いた。彼は尋ねた。「兄たちを殺した仇の行方かね――、それとも――君たちの馬車からまんまと逃げおおせた娘の行方かね?――」
「もっ、もちろんカタキのほうだ! 俺は兄ちゃんたちをぶっ殺した奴をぶっ殺してやりてえんだよ!」
 チンピラの中年は、焦った口調でそう答える。まるで“蛇”の言葉を掻き消さんとするような、必要以上の大きな声で。
 それが意図するところくらいは、クライブにも理解出来なくはない。自身の後ろ暗い“仕事”についての仔細を暴き立てられて、仮にもスポンサーとなった軍人こちらの心証を悪くしたくないと思っているのだろう。
 だがそうした裏の事情を把握しながらも、クライブは何も言わなかった。いや、言えなかった――何故なら今の彼の意識と視線は、“蛇”の傍らにかしずく女に奪われてしまっていたからだ。
 年の頃は二十代の後半。優美な身体を隠すのは上にいた女たちと同じ、肌の色が透けて見えそうな薄布だけ。伸ばした爪を赤く塗り、その指で器用に卵の殻を剥いては、“蛇”の口元へと差し出している。
 クライブとて、それだけなら特に驚いたりはしない。……しかし、その娼婦の外見に、普通の人間とは掛け離れた部分があるとなれば話は別だった。
“何だ……あの、耳は?”
 青年の凝視は女の指先でもなく胸元でもなく、ただその一点にのみ注がれていた。彼女の耳の形は数字の“3”のような一般的なそれではなく、なんと人さし指と同じくらいの長さのある尖り耳だったのだ。
 顔立ちはアトラの南部によく見られる彫りのある細面。燃えるような赤い髪の毛も、茶色い目も、形が良く整っていることを除けばこの地方ではごく有り触れた特徴である。
 そんな見目麗しい彼女の容姿にあって、ただその細く長い耳だけが異様だった。
 呆然とするクライブの脳裏に、ひとつの単語が浮かぶ。
加工生命グラフトロイド――では、彼女も
 自然の法則を外れた人造生命体。思えばすでにこの街で、自分はあの女性と同種の存在を見ている。光輝く翅を持つ、夜の虫たちのことを。
 虫と違い、人間に対しての施術は禁制扱いになっていることだとか。彼女自身は二世か三世なのかも知れないことだとか。そうしたことは知識のうえでは理解していても、いざ本物の加工された人間を前にすると、どうしようもなく意識が釘付けにされるのを押さえられなかった。あの長い耳は舞台用の付け鼻や鬘などとは明らかに違う。人体が本来持ち合わせないはずの、不自然なものでありながら、しかし同時に、肉の一部としてまったく自然なのだ。
「――るのは、旧商湾の西通り沿い――十四番区の突き当たりにある古い造船所ドッグだ――。前の持ち主が破産したあと、しばらく手付かずになっていたらしいが――」
 ドロッグからの言問いに、“蛇”が情報を提供している。単独犯であること、海へ潜って足跡を消していること、現場に奇妙な点がいくつか残されていたこと。犯人像や動機など、詳細な真相はまだ掴みきれていない。が、どうやら犯人を乗せた小型ボートは、大胆にもアーヴィタリスの港の何処いずこかを隠れ家としているらしい――
「…………」
 だがその横の檻のクライブは、彼らの遣り取りをほとんど聞いていなかった。不躾であると心のどこかで自覚しながらも、青年はあの長耳の娼婦から視線を引き剥がすことが出来ないでいた。そんな彼に対し、女はゆったりと艶のある微笑みを返すのみだった。
「――……タンジーのことが、そんなに気に入ったかね?――」
 クライブがようやく我に返ったのは、“蛇”のその言葉が自分に向けられたものだと気付いたときだった。すでにドロッグの側の問答は終了したらしい。チンピラの中年はすぐにでも外に飛び出したいようなそわそわした様子で、檻の鉄柵を掴んで貧乏揺すりをしている。“おい、何してるんだ。早く終わらせちまえよ!”――彼の眼がそう叫んでいた。
 クライブはあらためて“蛇”を見、それから訊ねた。
「……人を探しているんだ」
「――ほう――どんな人物かね?――」
「名前はランカニス。……ランカニス・フィードベル。年齢は五十から六十くらい。背丈は自分よりも頭一つほど小さい。老年のわりに、かなり鍛えこんだような体つきをしている。短い白髪、額は少しあがっていて、ごましお色の髭は顎のラインできっちり整えていた。腰には短剣を差していて、服装は……」
 青年はランカニスについて思い出せる限りの特徴、手がかりになりそうなことを挙げつらねていく。そして今から約二十時間前の出来事、彼が失踪した際の一幕を掻い摘んで説明したところで、ついに他になにもなくなり、クライブはそのことに触れざるをえなくなった。あの人物を象徴する、最も大きな要素を……
「そして、なんでも……彼は、魔術師を生業にしている、……らしい」
 青年は視線を逸らしながら、吐き出すようにそう言った
「――魔術師、ね――」
 おかしさを堪えきれないように、“蛇”の脂肪の山がゆさゆさと震えた。ドロッグはぽかんと口を開けて、タンジーという名らしき長耳の娼婦は瞳を瞬かせて青年を見詰めた。
 それらの反応が無理も無いと思うだけ、羞恥の念はより一層クライブを責め立てた。自分でも馬鹿なことを言っているのは判っているのだ。いや、そもそも自分が、こんな怪しげな連中と関わり合いになっていることのほうがおかしいのではないか。だというのに――
「――いや、失礼した――。少々意外だったのだよ――。まさか、君のようなお固そうな人間から――そんな言葉が出てくるとはね――」
 ひとしきり笑って、“蛇”は再びタンジーの差し出す卵に齧りつく。それから彼はこう訊ねた。
「――だいいち――君は、魔術師という存在を信じているのかね?――」
「……」
 クライブは途端に言葉に詰まる。その反応は、彼の内心をわかりやすく白状したようなものだった。
「フフ――まあ、そうだろう――。学校だとて、軍隊だとて――彼らのことを、教えてはくれないからな――」“蛇”は同情したように言った。「――ひとつ助言をさせてもらえるなら――今のままの君では、その男を見つけることは叶わんだろう――」
「……それが、あなたのくれる“情報”だとでも?」
「――いやいや――気に障ったなら謝るよ――。今のは、単なる世間話さ――。
 フム――……昨日の朝、ヨースの工場前に打ち上げられた海坊主のネタなら――、一応、私のにもかかっているが――さて、その後の所在となるとな――」
 ――私としてもアーヴィタリスに流れ着いた余所者ひとりひとりの足取りを掴んでいるわけではないのでね――。淡々とした“蛇”の言葉に、クライブは少なからぬ落胆を覚える。情報屋とて万能ではないことなど、あえて言われるまでもない。ここまで足を運んだことが丸ごと徒労になる可能性だって、頭の何処かで判ってはいた筈ではある。が……、無駄にしてしまった時間を思えば、溜め息のひとつも出ようというものだった。
「――しかし――せっかく私のことを頼ってきてくれたのに――、手ぶらで帰してしまうのも締まらない話だね――」と、“蛇”は続けた。「――そこで、どうだろう――。もし君が望むのならば、こちらとしても――協力してやれぬでもないよ――」
「……と、いうと?」
 計ったようなタイミングで垂らされたその釣り針に、クライブはあっさりと反応してしまう。肉厚の唇をにんまりと歪めて、“蛇”は言った。「――なあに、難しい話ではない――。ただ口を開けて待つのみでなく――、私の網を能動的に動かして、そのランカニスという男の情報を集めさせるのだ――。この界隈に潜んでいるのなら――三日もあれば、必ずや手がかりが掴めるだろう――どうかね?――」
「確かに……それは、そうだが。しかし……」
 確証のない不安に口篭る青年へ、情報屋の男は畳み掛けるように言う。
「――まあ、無理にとは言わないよ――。網を投げるためには、それなりの誠意が必要だからね――。しかし、この大きな“成り上がり都市“において――異邦人でしかない君に、何か伝手となるものがあるのかね?――」
「…………」
 その指摘は、まさにクライブの泣き所を突くものだった。“駄目だ、足元を見られている……いや、見透かされている”だが他に遣り様はあるだろうか? 何も無かった。数十秒後、彼は渋々と頷いた。
「……わかった。あなたに頼む。あの男のことを捜してくれ」
“蛇”は笑った。巨体が揺れる。だぶついた肉垂のせいで首はまったく見えなかったが、それでも頷き返したことには違いないようだった。
「――頼まれよう、頼まれよう――。何か判ったらすぐにでも、使いの者を立てて君に伝えようではないか――。確か、〈良き風のはじまり〉亭だったね――? いい宿だ、看板娘も可愛い――」
 クライブはあらためて驚かされる。宿のことなど一言も言っていないというのに。
 そして“蛇”が提示した金額もまた、こちらの懐具合をあらかじめ知っていたのではと驚くような、払うことの出来るギリギリの範囲の数字だった。
 あまりにも暴利すぎるのではないか。せめて成功報酬にするべきではないか。青年がそう持ちかけると、“蛇”は物分りの悪い生徒を諭すような、穏やかな口調でこう応じるのだった。
「――将印の押された紙きれ一枚で、民草から徴収が出来る君らにはわかりにくいかも知れないが――網を投げるというのは、つまりは人を動かすことなのだよ、クライブくん――。青い牙ブルートゥースの威光を持たない私が他人にお願いをするためには――、黄金こがね色の輝きに頼るしかないというわけだ――。それにね――、もし私の網に、ランカニス氏の居所が引っかからなかったとしたら――そのときは――君は、“この界隈にその男はもういない”――という情報を得ることになるのだよ――」
 クライブは臍を噛む。“もし軍の影響力が届くようなら、こんな穴倉はすぐ摘発してやるのに!”……もっともその場合は、この情報屋は自分のことを巣にまで通したりはしなかっただろうが。
 結局、言いなりになる以外になかった。
 遥か頭上でガラガラと鎖を巻く音がし、ドロッグの乗る檻がゆっくりと上昇をはじめる。
「……さっきの、世間話とやらのときに」最後とばかり、青年は“蛇”に訊ねた。「今のままの自分では、彼のことを見つけられないだろう、だとか言っていたな。あれは一体、どういう意味なんだ?」
「――草原に棲むライオンには――海に棲む魚たちの気持ちはわからん――ということさ――」
 はぐらかすようなその物言いに、クライブは険しい視線を向ける。しかし“蛇”はまるで意に介すことなく、新しい卵を咀嚼しながら続けた。
「――たとえば――先程、君はこのタンジーのことを――随分と熱心に見詰めていたね――。まあ、無理からぬことだ――彼女は、人間たちの作る“社会”という名の枠から――少しだけ外れてしまった娘だからね――」
 器量も心配りも身体の具合も、どれをとっても良い子なのにね――そう呟きながら、“蛇”はその大きな手のひらを娼婦の頭に優しく乗せる。長い耳が照れるようにぴくりと跳ねた。
「防柵を作り――城壁を作り――国境を作る――。規範を作り――法律を作り――常識を作る――。有形無形に関わらず、人間は――“枠”を作らずにはいられない生き物だ――。そして、その"枠"をはみ出してしまった者たちは――たとえ、君が敵意を持っていなかったとしても――どうしても、あぶれてしまうものなのだよ――」
「……」
 青年は押し黙る。規範の徒を自覚する憲兵のはしくれであるだけ、それは理解に易い話だった。考えてもみろ――さっきの自分は、あの女を見てどんな反応をしたか。どんな気持ちで彼女をことを凝視していたのか?
“確かに、彼女が普通の暮らしを営むのは不可能だろう”
 クライブはわずかな謝意を込めてタンジーに目礼した。穴倉の底に隠れ住む娼婦は些かの蔭もない、柔らかな微笑を彼に返した。
「――君が挙げつらねた、ランカニスという男の風貌は――このタンジーのような、特別変わったところはなかったようだが――なにも、“枠”が線引きをするのは外見のみの話ではない――。国籍、職業――そして、心の持ちようもまた同様なのだ――ましてや魔術師だというのなら、尚更にね――」
 振動とともに、青年を乗せた檻が上昇をはじめる。
 中年のチンピラ。情報屋。加工生命の娼婦、そして、魔術師。
 これまでの二十二年の人生で、まるで関わりあうことのなかった人々。“蛇”のいうところの、枠の外にいる者たち。確かに、自分と彼らとでは住む世界が違うと感じざるを得ない。
 そして“蛇”は、今のままの自分ではランカニスと共存することは出来ない、という。ならば、たとえ彼からの情報で、ランカニスの元へとたどり着くことが出来たとしても――再び彼に失踪されたのなら、同じことの繰り返しになるのではないだろうか?
 ゆっくりと上昇していく視界で、壁に掘られた怪物の像が青年を威嚇する。
 苦々しい予想に悄然としながら、最後にもう一度、クライブは部屋の底の情報屋のことを見下ろす。
 美しい長耳の娼婦が差し出す卵に、彼は飽くことなく齧りつき――瞬間、その太った男の口元で、先端の二つに割れた舌べろがちらついた気がした。


          ▽    ▽    ▽


 潮の匂いのする冷たい夜風は、酩酊したような意識を醒ますにはちょうど良かった。
 ブーツの爪先がときおり石畳に引っかかる。クライブはまだ自分の身体の中にアルコールが残っているのを感じている。しかしいま胸に渦巻く奇妙な感覚は、決して酒精のせいだけとは言い切れない。
“なんという一日なんだ、今日は――……”
 煉瓦の壁と煙突の向こうの東の空は、まだ暁光の兆しを見せない。ランカニスが失踪したあの未明の事件から、まだ二十四時間すら経過していないのだ。
 レイセニス号の甲板から眺めた、朝もやと蒸気に包まれたアーヴィタリスの面つき。彼はふと回想に浸る。あのときには、あまりにも殺風景な港の姿に失意を禁じえなかったものだが……まさかその街で、これほど濃密な初日を過ごすことになろうとは思ってもみなかった。
 ランカニスを探して湾岸一帯を駆け回り、街警団シティ・ガードの詰め所でまんじりともしない時間を過ごし、そこで出会ったチンピラ相手に安宿で不味い酒を呑んだ。暗闇を照らす羽虫の輝きに驚き、その下で繰り広げられる夜の街の喧騒に驚き、娼館の地下では情報屋と長い耳を持つ女に驚いた。
“――そして今、自分は、街を騒がす殺人鬼のところへ向かおうとしている”
 大きな背中が前を歩いている。肩を怒らせてのしのしと、ドロッグ・ソーヴォは一瞬たりとて立ち止まる気配を見せない。〈サウナ・リトルピーシャ〉を出たその足で、彼は“蛇”の示唆した場所へと驀進していた。あらかじめ宣言していたとおり、兄の仇を討つために殴りこみをかける所存なのだろう。
 情報屋との繋ぎをつけ、“蛇”からの使いを待つばかりとなったクライブにとって、もはやこのチンピラとかかずらう必要はない……とは、残念ながら言い切れない。青年は彼に対して好意などまるで持っていないし、“蛇”の元に案内してもらったのは取引の上のことであり、借りを作ったという思いもない。
 が、もしここで、クライブがドロッグと別れた場合、どうなるか。
 単独犯らしいとはいえ、相手はチンピラ二人を殺害している危険人物なのだ。返り討ちとなる可能性は充分に有り得たし、逆にドロッグがあの大きな拳で仇の顔面を粉砕してしまうことだってないとはいえない。どちらにしろ、またひとつ新たな死体が出来上がらずにはいられない展開である。
“もちろん、‘蛇'の情報が正しかったらの話だけれども”
 クライブとて、あの情報屋のことを頭から信じ込むつもりはなかった。ドロッグについていくのは、無益な惨劇を防ぐ他に、“蛇”の網とやらの精度を確かめたいという意図もある。
“それから、あわよくば……”青年は通りすがった建築現場から、手ごろそうな角材を拾いあげる。“このまま、首尾よく事件を解決してやれば、手透きとなった街警団の人員を、少しくらいはランカニス捜索のために割いてもらえるかも知れないじゃないか?”
 角材の真ん中あたりを拳で叩いて硬さを確かめ、二、三度素振りを試みた。愛用の軍刀に比べれば重心も握りも怪しいが、贅沢は言えない。相手が複数でなければ、これでも充分に無力化することが出来るだろう。
“あとで返しに来なければな”
 青年は角材を拾った建築現場のある海岸通りを記憶に留めようとする。そんな律儀さは彼らしい部分だ。が、しかし、もしこのまま事件を解決すれば、街警団にとっては余所者に職分を荒らされたことになってしまうだが……、酒の入った今のクライブの頭ではそこまで考えが及ばない。
「あすこだ」
 ドロッグが指差した先は、埠頭の岸壁から半ばせり出して建つ大きな工場だった。海面と接する側の壁は開閉式で、船がそのまま乗りつけ出来るようになっている。似たような建物は周囲にいくつもあって、打ちつける潮騒を不均質な雑音へと変えていた。どうやらこの辺りは造船所が多く集まる区域のようだ。
 歓楽街を離れ、餌柱の間隔が遠くなるとともに夜光蟲は数を減らしたが、それでも歩くのには何ら差し支えがない程度の光をちらつかせている。しかし見渡せる範囲には、自分たち以外の誰かの息遣いは感じられない。人の姿がなくなり、喧騒が耳に届かなくなると、虫たちのもたらす青白い光は途端にうら寂しいものに感じられるようになった。
「本当に行くんだな?」
 最終確認のつもりで発したクライブの問いに、「あたぼうよ」とドロッグは腕を回して答える。
「邪魔しないでくれよな、兵隊さんよ」
「ああ、わかっている」
 その返事は必ずしも本心とは言えなかった。命の遣り取りになる前に止めるつもりだと正直に話せば、このチンピラは少なからず不服を唱えるだろう。
“しかし――”と、クライブは仮定を思考する。“たとえ正直に言ったとしても、こいつは自分の同行を拒むだろうか?”
 まだ短い付き合いではあるが、それでもドロッグ・ソーヴォについて、多少は理解出来たことがある。強面で体格にも充分恵まれているくせに、実際のところ彼はかなり小心な人物なのだ。“兄ちゃん”たちが存命の頃は、子分として使われることによって、その気の弱さを覆い隠すことが出来ていたのだろう。しかし彼らがいなくなった今、危険人物の棲家に乗り込まんとするこの局面で、唯一味方になるかも知れないクライブのことを拒絶するようには思えなかった。
 青年は遠間からその造船所を観察する。錆び付いた門構えはしばらく人の出入りがあった形跡がないうえ、窓という窓には木板が打ち付けられている。どう見ても、廃業後に差し押さえられたような物悲しい風情しかない。さらに近づいてみても、中から話声が聞こえてくることもないし、木板の隙間から明かりが漏れるようなこともない。
「おい、ここで間違いないんだろうな?」
 ささやき声になってクライブは尋ねる。ドロッグは憮然としたままその工廠の門前を右から左へ往復し、「中に入れねえかな」と呟いた。
 路地とも呼べない建物と建物の隙間を抜け、海側へと回り込む。勝手口のような都合の良いものは見つからなかったが、積み上げられた樽の裏側で、窓代わりの木板が半ば腐りかけているのを発見した。
 止める間もなくドロッグはそれを蹴破る――派手な音が潮騒の静寂しじまに響き渡った。
“中に誰かがいたとしたら、間違いなく今ので眼が覚めたことだろう”
 もはや奇襲は望むべくもない。クライブはうんざりとしながらチンピラのあとに続いて工場の中に潜り込み、角材を小脇に抱えてマッチを擦った。
 外から見ただけでは、その建物は単なる廃業した造船場でしかなかった。しかしマッチの火に照らされる眼前、コの字型のプールになった係留場は二十トンほどの小型の蒸気船が占拠していた。暗くてはっきりとはしないものの、甲板の様子や煤の汚れ具合からして、そう長いこと放置されていたものというわけでもなさそうだ。
 蒸気機関の止まった船は、打ち上げられた鯨のように静かに停泊している。クライブはさらに五感を研ぎ澄ませる。“蛇”からの情報が正しいなら、チンピラたちを殺した犯人が今にも襲い掛かってくるかも知れない。
 バリケードのように廃材が積まれた鉄扉の出入り口。吹き抜けの高い天井。張り出した作業用の足場。首長竜の骨格標本のような、錆び付いた滑車式クレーン。炎の投げかける影のうち、動いているのは自分とドロッグの足元から伸びるものだけだ。稼働を止めて久しいと思しき工場の内部に、やはり他者の気配などない――
 ――否。
“この、臭いは……”
 クライブは小さく鼻をひくつかせる。民家なら三階分ほどもある吹き抜けの空間とはいえ、窓を塞がれ、空気の循環しなくなった工場内には、磯臭さとはまったく別の生臭さが漂っていた……血のにおいだ。
 そして。
「……、ぃ……」
 クライブとドロッグは思わず顔を見合わせる。“お前も聞いたか?”強い緊張を孕んだ互いの視線がそう問いかわす。
 波の音に掻き消えるような、だがさして遠くない場所から発せられた、か細い呻き声のようなもの。廃工場内の、第三者の声。
“だが、どこから?”クライブたちは息を詰めて周囲を警戒する。あの船の中か、それとも……。
 彼らは壁を背に、ゆっくりと係留プールの縁をまわる。角材を構えたまま舳先の向こうを覗き見る。進入したのと反対の側舷の影にもやはり人の姿は無く、だがその代わりに、
「あ……」
 耳の近くで、ドロッグがそう声を漏らす。彼が見ているものと恐らく同じものを今クライブも見ている。船の渡し板から点々と続く乾いた血痕……それは工場の床を横切り、奥に置かれた巨大な木箱の前にまで続いている。
「……ぃ、た、……ぃ……」
 そして、今度は、さっきよりもはっきりと聞こえた。恐らくは舶来の高価な家具などを、おがくずとともに詰めて輸送するために使う大型コンテナ。人間が数名入っても、まだ余裕があるくらいのサイズの木製の櫃。
 低い声は、その箱の中からこう繰り返していた――「いたい……いたい……」と。
 つまりは即席の檻ということなのだろう。木箱は小さな閂のついた上蓋が側面になるように横倒しにされている。手傷のためか、それとも返り血かは判らないが……とにかく血痕は、あの箱の中に閉じ込められた人物の身体を伝い落ちたものに違いない。
「おい、誰だ、そこにいるのは?」
 ドロッグは乱暴に木箱の蓋を叩いた。檻の内側から返事はない。痛い、痛いと、ただ弱弱しく呻く声がするばかりだ。
“閉じ込められているということは、中にいるのは犯人じゃなくて被害者なのか?”
 予想もしていなかった展開に青年は途惑う。負傷した被害者が監禁されているのだとしたら、早々に助け出してやらなくてはならない。もちろん、中の誰かを閉じ込めた人物もいるはずであり……どちらにせよ、“蛇”の情報がガセネタだということはなさそうだった。
 躊躇するクライブを他所に、ドロッグはそのコンテナに取り付けられた閂を取り外しに掛かる。短い鉄の棒が引き抜かれ、厚みのある木製の蓋が、蝶番を軋ませながら開いていく。工場の中により一層濃い血の臭いが漂う。
 箱に閉じ込められていたのは、男が一人だけ……のようだった。
 暗がりにしゃがみこみ、顔立ちや身体の状態までははっきりと見えない。唯一、マッチの火の照らす範囲に入っている向こう脛は憐れなほど痩せていて……そして、乾いた血がべっとりと付着していた。
「誰だ……あんたたちは……?」
 暗闇の中、膝を抱えた男がクライブたちを見て訊ねる。濁った双眸が小さな炎の色を映している。そして同様に、彼の身体のあちこちで、何か金属のようなものが、マッチの明かりを反射し瞬いた。
「痛み止めの……あの薬を……持ってきてくれたんじゃ……ないのか……?」
 短くなったマッチの熱を指先に感じる。クライブは動けない。あと一歩踏み出すだけで、いや、マッチを持つ右手をもう少し前に突き出すだけで暗闇の中の男の全身が明らかになるというのに、まるで金縛りにあったかのようにそればかりのことが出来ないでいる。
「お前か」ドロッグの声は怒りに震えていた。「昨日の晩、兄ちゃんたちを殺したのはお前か!?」
 相手が閉じ込められていたという事実を無視し、その中年のチンピラは叫んだ。あるいは彼にしてみれば、この廃工場にいた人物は誰であれ犯人にしか思えないのかも知れない。
「うう……ううううぅ……」
 血みどろの膝が持ち上がる。暗がりの中、閉じ込められていた男がひどく億劫そうに立ち上がろうとしている。……何かがおかしい――クライブの本能が警告を叫ぶ。どうして……一体どうして、この蓋の内側はこうも切り傷だらけなのか
「おい、何とか言ってみろよこの野郎!」
 やめろと静止する間もなかった。ドロッグは男を引きずり出そうと太い腕を伸ばした。箱の内側には逃げられるほどの空間もない。捕縛は容易く成功し、暗闇にうずくまっていたその男はドロッグの胸元へと倒れこみ、口汚くわめいていたチンピラの声が、途端、あられもない絶叫に変わった。
「ぎゃああああアァッ!!」
 クライブの眼前。ドロッグ・ソーヴォは、血の糸を引きながら崩れ落ちる。そして崩れ落ちる大きな背中の向こうに、青年は見る――返り血に全身を赤く染める、痩せぎすの男の姿。
「痛い……! 痛いんだよぉ……!」
 青年の手からマッチが零れ落ちた。角材を両手で握り締めたクライブは剣技も立場も何もかも忘れ、がむしゃらに殴りかかる。そして次の瞬間、彼の指先を痺れさせた奇妙な手ごたえは肉を打ったものでも骨を打ったものでもない。鎖骨を叩き折るはずだった角材の先端が、男の肩から生えた刃物に食い込んでいた
 遅ればせながら認識が現実に追いつく。クライブはようやく理解する――コンテナに閉じ込められていたその男が一体どんな容姿を、いや、どんな加工を施されていたのか。
 ドロッグの全身を刺し貫き、角材の打撃を受け止めた短い刃物。それは一本きりなどでは決してなかった。十本、十五本――あるいはもっとたくさん。骨の浮く半裸の男の胸に、肩に、肘に、二の腕に、手の甲に、アバラの上に、臍のあたりに、そして額に、その刃物はのべつまくなしに引っ付いていた。接着されているのではない。紐や革帯で括りつけられているのでもない。刃は男の皮膚の下から、まるで凍土を破った植物の芽のように飛び出していた。
「どうして……俺が、こんな……!」
 全身から刃物を生やした男が叫ぶ。クライブに向けられる濁った双眸、それは自己に襲い掛かった理不尽に煩悶する眼であり、またその理不尽を、他の誰かにも押し付けんとする眼だ。
 角材の先端が彼の手に掴まれた。棒の取り合いをするような格好になって、クライブの背筋に恐怖が走る。この間合いの近さはどうしても不味い。取り押さえることなど無謀すぎるし、体当たりなどされれば、それは十数回もの刺突を一度に浴びるのと同義なのだ。
「やめろ、自分は――」
 ――軍人だから。
 ――危害を加えるつもりはないから。
 ――お前とは、別の世界の人間なのだから。
 言い澱んだ言葉の先は鋭い痛みに切り裂かれた。痩せぎすの男が乱雑に腕を振り回しただけで、クライブの左の下腕にはばっくりと裂傷が走っていた。角材が床の上をカラカラと転がり、ドロッグの垂れ流した血に足を滑らせて青年は転倒する。
 尻餅をついた態勢で、クライブは血みどろの男を仰ぎ見る。笑っている……泣いている……狂っている。刃物を生やした異常な男の顔に浮かぶいくつもの表情。そのどれもが、まるでクライブへの殺意を叫ぶかのようだ。
 やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。せり上がる感情が恐怖に潰れて声にならない。死んでしまう、このままでは、死んでしまう、こんなところで、死んでしまう、彼が真っ直ぐに倒れこんでくるだけで自分は穴だらけになって死んでしまう。――だが一体どうすればいいというのか、全身から刃物を生やす人間への対処方法など知らない、訓練では、そんなことは決して習わなかった――
『あのなあ、クライブ』――
『大事なのは思考の瞬発力だ。普段からそれを磨いておかねば、いざ思いがけない事態が起きたとき、最良の選択肢が頭に浮かばんことだって有り得る』――
 老魔術師の言葉がまるで走馬灯のように甦る。今となっては益体もない、だが今でこそ本当の意味で腑に落ちるその切言。“もし、あのとき――”年寄りになった気がすると愚痴をこぼしたランカニス、もしあのとき、あの背中に気の利いた言葉を掛けてやれたなら、この危機を切り抜ける術を思いつけたのだろうか?
 混乱する思考。
 頭に浮かぶのは、何の意味もない後悔だけ。
 そしてクライブは、まだ理解していない――“思いがけない事態”とは、準備も後悔も、何の心構えも出来ない場所から襲い来るものなのだと。

 繰り出された斬撃は無音だった。

 加工生命の男が、左右に倒れた。
 よろめいた右半身が、係留プールに落ちた。
 よろめいた左半身が、コンテナの蓋にぶつかってくずおれた。
 廃工場を瀰漫びまんする血臭に臓物と汚物のそれが加わる。消えかかったマッチの灯火、弱々しく呻くドロッグの声、クライブの眼球は主人の意志とは無関係に、当然あるべきものの姿を探す。
 ――いた。
 その殺人者は、尻餅をつく青年の背後にいた。
 あまりにも予想外の立ち位置。そして、あまりにも予想外の出立ち。
 夜目になお黒い髪。
 細く眇められた黒い瞳。
 その女は、少女とは呼べぬまでも、充分に若い容貌をしていた。だが眼の色や髪の色、曲線の滑らかな顔つきは、彼女がクライブたちとは明らかに違う出自であることを示していた。足元を覆う革製のブーツはともかく、留め具のない襟を胸元で重ね、腰帯で上衣を締めた装束の流儀は大陸のそれとは全く別の文明圏のものだった。
 そしてその女が手にしているのは、長大な得物を納める、華美な装飾の施された鉄鞘――









「な……、ん……」
 クライブの腹の底から意味を成さない声が漏れる。沸騰した頭には助かったのだという感慨もない。その姿はまるで、刃物人間と同種の怪物のようにしかクライブの目には映らない。
 狼狽しきった青年を見下ろす女はその朱色の唇から、残心とも違う溜め息をひとつ――
 次の瞬間、彼女のブーツの爪先が地を蹴った。
 袖のふくらみが飛鳥のように翻る。
 鉄拵えの鞘が、棍棒の代わりとなってクライブの側頭部を横ざまに打ち据える。目蓋の裏で火花が散り、視界の隅でマッチの火が消える。

 そうしてクライブ・ヨレンの意識は、深い闇の底へと沈んだ。




(第2回に続く)








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