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 「こいつに2杯だね。――ほら、ぼけっとしてないで4ルグお寄越し」
 私が身を切る思いで差し出した最後の硬貨は、その皺だらけの手に乗った途端あっという間に引っ込んで消える。そして代わりに、コーンの空き缶に乱雑によそられたのは、冷めかかった茶色い“シチュー”だった。
 薄い夕闇。夜のとば口。日が落ちたばかりのアーヴィタリス。〈大難破港〉からほど近い貧民窟スラムの片隅。
 木製のリヤカーに大鍋を載せただけの残飯屋の屋台には、屋根も椅子も看板もない。しかしこの袋小路には、みすぼらしい姿の客が途切れることもなかった。
「こっちもだ、ばあさん。1杯頼まァ」「俺の分はまだかよ、早くついでくれよ」
「うるさいね。順番だよクズども」
 世の中の大抵がそうであるように、当然、残飯屋にも残飯屋の格付けランクというものがある。
 たとえば上町にある高級ホテルだとか、貴族サマのお屋敷で行われる夜会だとか。そうした台所から使用人たちがくすねてきた上等な肉や魚、砂糖菓子なんかは残飯というより嗜好品の部類に入って、カドリアの大学通りとかではそこそこの値で取引されていると聞く。また市役所や兵舎の給食は、同じものをたくさん作るので再調理しやすく、出る量も多い。労働者階級ワーカーズでも、稼ぎの少ない人々の中には利用する者も珍しくはない。
 そして最後に、最低の部類に入るのが、いわゆる“乞食のシチュー”というやつだ。
 その料理には、名称はあってもレシピはない。そこらのパブやら食堂やらを廻って集めた野菜クズ、食べ残し、失敗作などをまとめて鍋にぶちこみ、原型を留めなくなるまで煮続けたもので、酸っぱくなっていたり、虫が浮いていたり、廃油のようなひどい臭いがすることもよくあった。
 空き缶に入った“シチュー”、あるいは“クズ煮込み”をこぼさないよう、手のひらで蓋をするように抱え持って、私は人ごみを逆方向に掻き分ける。肩に触れるのはたまの稼ぎを得た孤児だとか、施しにありつけた浮浪者とか、借金で首の廻らない人足とか、引退間際の年食った娼婦とか、そういう人たちばっかりだ。
 俯いたまま顔をあげようとしない客も多ければ、馬鹿みたいに陽気に騒いでる客もまた多い。でもそういう人は大抵お酒くさくて、先のことを考えたくないから明るく振舞っていることくらいは、私にもわかった。
 どちらにせよ、彼らの注意のほとんどは残飯屋の鍋に注がれていた。だから不意にぶつかったこちらの肩の硬さが骨ばっているせいなのか、それとも別の理由なのかなんて気にかけるような人は、ありがたいことに誰もいなかった。
 私の名前はハスナサナという。滅多にないことだけど、誰かに自分の名を教える必要ができたときには“サナ”と名乗ることにしている。
 このアーヴィタリスの街で路上生活する子供の大半がそうであるように、私も私を生んだ人間の顔などは覚えていない。でもこの名前の響きや水溜りに映った顔立ち、煤をいくら払っても真っ黒い髪の毛といった特徴から、自分が流民の血を濃く引いていることくらいはとっくに知っている。
 それから、ついでに、親から受け継いだのは流民としての特徴だけではないということも。
 残飯屋の人だかりから離れつつ、私は背後を何度も何度も振り返った。
 ああした屋台は夕暮れの貧民窟を探せば必ずある上、払うものさえ払えばどんな客にも食事をよそってくれる。懐具合はもちろん、格好を問われないことは私のような人間には都合が良い。
 けれど、買うことはうまくいったとしても、こうして食べられるものを持って歩くのはすごく緊張する。貧民窟にはこんな“クズ煮込み”にもありつけない人だってたくさんいて、そんなぼろぼろの追い剥ぎから走って逃げたのは一度や二度のことじゃない。
 特に今日は、冷えたシチューだけじゃなくて、袖の中にも……。
 ……ぐううぅ。
 下腹部から不意にものすごい音があがって、私は薄汚い路上に立ち尽くした。
 眩暈と区別のつかない空腹感。
 唾でいっぱいになった口の中。
 背後を気にする警戒心とか、慣れない帰り道の目印とか、そういうのに向けられる注意力のすべてが隠し持った食料に吸い込まれていく。そう感じる。今すぐあの建物と建物の隙間に潜り込んで、むしゃぶりつくようにそれらを頬張りたい。後先忘れて、あるだけ全部を自分の胃の中に流し込んでやりたい。……そんな衝動に駆られる。
 手にした缶が軋みかかっているのに気づいて、私はどうにか我に帰った。斑模様の素足の甲を見つめて、自分の視線を操り人形の糸だと思って、一歩一歩それらを前に進めた。どうしてこんな無駄な我慢をしているのか、自分でも不思議に思いながら。
 腐りかけた家や、煤だらけのレンガの壁。傾いたバラックの並びや、三百年前から建っているような古い櫓。
 そうした建物が続く貧民窟は、狭い通りをしばらく進んだところで、まるでナイフで切ったようにばっさりと途絶えた。 私の目の前の右から左、アーヴィタリスの中心部から西はずれに向かって、何もない更地が続いている。そして30メートルほど離れた向こう側に広がるのは、背後の雑多な界隈と変わらない貧民窟の風景だった。
 この一直線の更地は、これから機関車の線路を敷くためのものらしい。西側の暗がりの中には、まだ撤去されていない柱やブロック、取り壊されつつある建物の残骸がぼんやりと見える。
 私はそちらに向かって、更地の端をそそくさ歩いた。
 そして数分もしないうちに、崩れかけた壁に、この上なくわかりやすい目印を見つける。
 レンガの塀に塗りたくられたまだ新しい黒いペンキ。あまり巧い筆致とはいえない、けれど見る側に妙な威圧感を与える、逆さの髑髏の大きなマーク。
 それは教会の内視が残した、“業病”のあったことを示す記号だ。
 たとえ家なしであっても、梅毒や赤痢よりも恐ろしいその病気の跡地にわざわざ近寄りたがる人はいない。私だってこれを見たら、すぐ踵を返すようにしている……普段であれば。しかし今や逃亡者である私たちには、寝床を選ぶ余裕などなかった。
 立て付けの悪い木窓を押し開け、中に忍び込んでまた塞ぐ。昨日の明け方に捕まえた夜光蟲は酒の瓶の中で死にかけていて、部屋はほとんど真っ暗だった。じゃりじゃりする足元には割れたガラスや家具の破片などが散乱しており、埃っぽい空気には、微かに血の臭いが混じっている気がした。
 私は暗い暖炉の横に立てかけられた茣蓙を取り払う。
 壁に入った罅に潜り込むようにして、レルエッタがそこで眠りこけていた。
 たった一日半前に出会ったばかりのその少女を、私は無言で見下ろす。華奢な身体。薄汚れた手足や髪の毛。数日間ろくに水浴びもしてないだろうに、彼女の外見からはそれでも、街の孤児たちとは何処か違う育ちの良さが感じられた。それはもしかしたら、眠る彼女の口元に浮かぶ、幸福そうな笑みのせいかも知れない。
「すぅ……すぅ……」
 一体どんな夢を見ているのか。
 たとえ子供のころの夢の中であっても、私はこんな寝顔をしている自信がない。
「いつまでも寝てんじゃないわよ、お前」
 なんとなく腹が立って、私は素足の爪先でレルエッタの頬を小突いた。
 長いまつげがぴくぴく動き、うっすら開いた碧の瞳がこちらを見る。そして首を振って周囲の廃墟を見て、彼女の表情は一気に絶望に突き落とされたようにゆがんだ。――たぶん、目覚めの紅茶の一杯もなかったせいだろう。あるいは着替えさせてくれる召使がいなかったからか。
「おはよう。ずいぶん間抜けな顔で寝るのね、あんた」
 あえて悪辣な口調でそう言って、私はレルエッタの正面に座り込んだ。幸福な時間を断ち切っても、悪いことをした、なんて思ったりしない。そうだ。劣等感も罪悪感も、私はこいつに対して感じてやる必要はない。だって私についてくることを選んだのは、こいつなんだから。
「おはよぅ……ござい、ます……」レルエッタはちょっと涙目で、蚊の鳴くような声で言う。「えっと……サーナ……?」「発音が違う」
 昨夜から何度か指摘してるけど、彼女が私の名前のサとナの間を伸ばす癖は直らなかった。訛りのせいなのか、舌足らずなのか、それとも本当は私が間違っているのか、あまりよくわからないのだが。
 ……ぐううぅ。
 薄暗い部屋の中に、聞き覚えのある音が響く。
 最初は、また私の腹の虫が暴れたのかと思った。けれど目の前のレルエッタが恥ずかしそうに身を縮こまらせたのを見て、今の音の発生源が彼女のお腹だったことに気づく。
 ――まあ、無理もない。私がそうであるように、彼女も昨夜から、水以外は何も口にしていないのだから。
 残飯屋から抱えてきた“シチュー”の缶を床に置き、それから私は、懐にしまっていた緊張のもうひとつの原因を取り出す。しわくちゃの古新聞に包まれているのは、握り拳より少し大きいくらいのパンのかたまりだ。ライ麦のパンはただでさえ黒っぽいのに、下手な窯屋が焦がしたせいでますます黒くなっている。でも、焦げていようがカビていようが、パンの形をしているパンを買うのはいつも勇気がいった。
「…………」
 視線を感じる。がさごそしている私の手元、床に並べたシチューとパンに、レルエッタの瞳が釘付けになっている。まあ、無理もない――……はずなのだが、その視線に、ついまたイラッとしてしまう。
 どうして私は、こいつにおごってやらなきゃならないのだろうか。
 どうしてこいつは、自分も食べさせてもらえると思っているのだろうか。
 いや、それよりも……
「不味そうだって思ったでしょ、あんた今」
 レルエッタは逡巡しながらこちらの顔色を窺い、それから小さくうなずいた。根が素直な子なのかも知れない。そして私はその頭に拳骨を落とした。
「〜〜っ!」
「泣くな。うるさくしたら、この手をあんたの口の中に突っ込むわよ」
 べそをかく彼女の眼前に右手をつきつけ、威嚇するように指を広げたり閉じたりを繰り返す。その手の皮膚の人差し指と中指、手の甲の半分くらいは、真っ当な人間のそれではない。硬度も見た目も、その部分を覆っているのは雨ざらしの配管と同じような錆びた鉄である。おかげで私の拳骨は、普通よりかなり痛い自信がある。
「あの人買いたちに見つかったら、私だって危ないんだからね。もしまた逃げ出すハメになったりしたら、今度こそあんたを置いてくからね」
 ここでこうしてる最中だって、人買いたちがこちらを探していると思うと心臓がばくばくする。残飯屋までの往復のどこかで見つかって、後をつけられていたらどうしよう。今頃外では奴らの仲間たちが集まって、突入の頃合を計っているのかも知れない。
 連中の箱馬車の檻を破って逃げ出したのは、まだ今日の未明の出来事だ。
 ほんの十時間ちょっと前まで、私もこの少女も人買いたちにとっての『商品』だった。私は世にも珍しい鉄皮の加工生命グラフトロイドだから。レルエッタは幼くて金髪で可愛らしい、イイトコのお嬢様だから――多分。
 そして今は、ふたりとも逃亡者だ。
 土地勘のない路地裏をめくらめっぽうに駆け巡っているうち、後ろから追って来る足音とだみ声はいつしかぷっつり消えていた。加工生命として生まれたことも、連中に捕まったことも不運だったけど、変なところでツキがまわってきたというわけだ。
 どうにか見つけた人気の無い廃墟で、私とレルエッタは泥のように眠った。
 本当は、もっと遠くまで逃げるべきなのは判ってる。けれどレルエッタの柔らかい足の裏はいつしか血まみれになっていたし、途中から彼女をおぶって歩いたせいで、私だってくたくたになっていたのだ。
 とりあえず、しばらくはこうして息を潜めているしかない。彼女がいくらかは知らないが、一週間も見つけられなければ、向こうだって諦めてくれるだろう……そう思いたい。私みたいな例外はともかく、身寄りの無い小さな女の子がこの街で、誰かの食い物になることもなく一人で生きていけるなんてことはないのだ。
 まあ、これからそうなる可能性は、ぜんぜん低くないんだけど。
「ねぇ、あんたいくつ?」
 鼻をすする水っぽい音が止むのを待って、私は彼女に尋ねた。
 レルエッタは頭を庇うように両手をかざし、それから私に向けて、左の親指と小指以外を広げて見せる。
「……八つ?」
 傷も錆もない綺麗な指を羨ましく思いつつ、私は訊く。レルエッタは首を振って何度もうなずく。
 ――八歳か。
 そのくらいの年頃の少女が花町に立っていたって、珍しくはあっても驚くべきほどのことではない。そして、まったく悪いことかというと、そんなことさえもないのだ。たとえば孤児院で公然と虐待されたりだとか、ましてや餓死するのと比べたら何をかいわんやだ。
 彼女に自分を売るつもりがあれば――少なくとも確実に、“乞食のシチュー”よりはもっとマシな食事にありつけるだろう。
 私はどろっとした茶色い液体を指ですくって口に入れる。
 空き缶を再利用した器の表面に浮かんでいるのは、鱈のフライの魚抜きとか、ソースを吸ってべしょべしょになった野菜クズとか、ソーセージにもならなかった豚の腸とか、そういうものばかりだ。……さっきはついブン殴ってしまったけれど、これを見て旨そうだという人間はあまりいないだろう。(実際口にしてみれば、なおさら。)
 けれど、不味かろうがなんだろうが、「はいこれあんたの分」なんてやすやす渡してしまう気にはどうしてもなれなかった。
 だって――そのぶんを自分の胃に収めてしまえば、私は少なくとも、もう一日生き延びることが出来るのだから。
「……ねえ。あんたって、イイトコのお嬢様だったんでしょ?」
 そう尋ねると、レルエッタは首を傾げて、蚊の無くような声で、
「イイトコ……って、なに?」
 と答えた。
 実のところ、訊いた私の側だって“イイトコのお嬢様”というのがどういうものか知っているとは言い難い。貴族サマの暮らしぶりなんて、寝藁代わりにした古新聞の挿絵か、あるいはずっと昔に読んでもらった絵本の中の出来事でしかないからだ。レルエッタが上流階級の出身だろうというのも、その容姿や身ごなしから判断した勝手な想像に過ぎない。
 でも……少なくとも、日々の食事を心配する必要はない身分なのだろうとは、思う。
 私は質問を変えることにした。
「あんた、どこから来たの?」
「……おうち」
「もうっ、そうじゃないわよ。じゃ、その“おうち”って何処にあったの?」
「ソルレイヌのちかく」レルエッタは言った。「知ってる……?」
「……」
 うん、知らない。
 まあ知ってたとしても、私には彼女をそこに帰してあげることなんて出来ないんだけど。
「……あ」
 ――そういえば。
 ふと気づいて、私は訊いた。
「あんた、自分がどこにいるかわかってる?」
「……」
 ふるふる。レルエッタは首を横に動かした。
 ――まあ、そんなことじゃないかとは思ったけど。
 私はため息をひとつ、
「ここはアーヴィタリス。アーヴィタリスって知ってる?」
 ふるふる。
「……おっきな街よ、馬鹿みたいにね」と私は言った。「そこらじゅう煙と煤だらけで、そこらじゅう工場と煙突だらけ。海には船がいっぱいで、夜空には羽虫がいっぱい。あっちもこっちも工事してて、そっちでも向こうでも騒ぎがあって、どっちにいっても人、人、人でいっぱい。川の上から海岸までびっしり、物見の塔の西から東までぎっしり。街の外側はまだまだ大きくなってるらしいし、汽車や船のせいで、外からはどんどん余所者が流れ込んでくるし――……」
 私はそこで言葉を止めた。目の前の余所者が、また泣きそうな顔をしていたからだ。 あちこちの貧民窟とか、流民街とか、マルリカヤードとか、処刑広場だとか。私が知っているアーヴィタリスはそういう柄の良くない場所ばっかりだけど、でもとりあえず、人買いの馬車に閉じ込められても、注意深く周囲を見渡せば、だいたいどこらへんに移動したのかは見当がついた。
 翻って――こいつみたいに、自分が何処にいるか全然わからないというのは、いったいどんな気持ちになるんだろうか?
 顔を伏せたレルエッタを眺めながら、私の脳がまた想像をはじめる。
 ――初めて目にする煤けた街。初めて目にする虫の翅の灯かり。
 ――そこで出遭うのは粗暴で酒臭い人買いたちや、泣くなと脅す鉄の皮膚の怪物(私だ)。
 頼れる大人はどこにもおらず、目に入るもので知っているものは何も無い。
 心細さ。やるせなさ。不安と恐怖。
 そうしたもので潰れそうな、まだ幼い心。
 私は想像する――もし自分がレルエッタの立場だったら、どうするだろうか? まだ八歳で、身寄りも無くて、何も知らない大きな街にいきなりつれてこられたとしたら、いったいどうすることが出来るだろうか――?
「…………あの、……サーナ……、」
 少女はおずおずと口を開き、私の名を呼び、
「サーナのおうちは、このまちにあるの……?」
「――……」
 そして放たれた問いかけは、こちらの予想の範囲を完全に超えていた。
 あまりにも的外れで、救いようがなく、自分と彼女の世界の違いを徹底的に感じさせるその発言。
「覚えときなさい、レルエッタ」答える私の唇からは、真冬の霧のように冷たい声が出た。「このアーヴィタリスには……ううん、多分、他のどの街でも。親がいなくて、お金もなくて、帰る家なんかない子供なんて、いくらでもいるのよ」
 そしてもう、あんたもその一人なんだからね――。
 言葉の意味が通じたのか、通じなかったのか。
 レルエッタは打ちひしがれたように膝と膝の間に顔を埋める。
 ……細い脛の上を流れ落ちる、さらさらの金の髪。
 袖口から覗く、すべらかそうな白い二の腕の皮膚。
 レルエッタがイイトコのお嬢様だったのだろうというのは、私の勝手の推測に過ぎない。
 でも、他の想像がどれだけ的外れであろうとも、ただひとつ――彼女がこれまで、自分で金を稼ぐなんて考えたこともないという推測だけは、間違いないと確信を持って言える。いや、それどころか、ひょっとしたら今もまだ判っていないんじゃないんだろうか。
 私は焦げた黒パンの端をちぎって、一口齧った。
 ――これから、どうする?
 靴底に隠してあった小銭はもうない。このパンのかけらと“乞食のシチュー”に、全部使い果たしてしまった。なんとかしなけりゃ、数日後には二人揃って飢え死にだ。
 それにこの廃屋にだって、いつまでも留まっているわけにはいかない。明日にも取り壊しがはじまったっておかしくないのだ。けれど行く宛なんてもちろん無いし、外では人買いとその仲間たちが、私たちのことを探しているはずだった。こんな目立つ容姿をしたレルエッタを連れてうろうろするのは、極力避けなくては……
 ……っず。
 ……ぐじゅっ。
 埃っぽい床に、大粒の雫がぽたりと落ちる。
「――な、もう、泣くんじゃないって言ったでしょ」
 気がつけば、レルエッタはぐずぐずに泣き崩れていた。
 頭を抱え、肩を震わせ、それでも膝小僧に口元を押し当てて、声を漏らさないようにして。
「あーもう。しっかりしなさい。泣いたってどうにもならないでしょ。誰かが助けてくれるわけじゃないんだから。涙がお金になるわけじゃないんだから。……そりゃ、あんたにしてみれば、こんなところに連れてこられて、泣きたくなるのもわからなくはないけどさ……。ほら……ちょっと。もう、泣かないでよ。……これ、食べていいわよ。おいしくないとは思うけどさ。でも我慢しなさいよね。他に何も無いんだから。――ほら、顔拭いて。鼻かんで。……どう? 食べられそう?」
 最後の小銭と引き換えにした食料を差し出しながら、私は現実の問題に思い悩む。
 ――これを食べてしまったら、その後はどうしよう。
 ――お金をどうしよう。寝床をどうしよう。こいつのことを、どうしよう。
 ――……私はいったい、どうすればいいんだろう?
 考えれば考えるほど先行きは真っ暗で、嫌な想像しか浮かんでこない。埃っぽい廃墟にうずくまりながら、私も少し、彼女と一緒に泣きたくなった。






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