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 下働きの朝はすべからく早い。
 炊事に洗濯。掃除に買出し。やらなきゃいけないことを並べるとまるで女中メイドさんみたいだけど、実際、徒弟にとって親方はご主人さまも一緒だ。お叱りを受けないよう、あるいは拳骨を落とされないよう、休む間もなく先回りしなくてはならない。
 僕はあくびを噛み殺しながら干していた包帯を取り込み、歯を磨きながらそれをロール状に巻き直した。
 元は飲み屋のワイン庫だったというこの部屋は、今ではほとんど物置と変わらない。低い天井。迷路のように並ぶ棚と棚。暖炉が無いので冬場はおそろしく寒い。ついでにときどきネズミが出る。
 それでも、この診療所の地下は僕の王国だった。
 買い置きの小麦やじゃがいもの袋は大事な兵糧、医療器具と薬壜は戦さのための武器。そして本棚からはみだすほど蓄えられた書物たちは、何より貴重な宝の山である(僕のじゃないけどね)。
 急な階段を登って、替えのシーツを一階に運ぶ。
 診察机を拭き、アルコールランプに油を足す。
 ハタキ片手に踏み台に乗り、壁掛け時計のネジを巻く。
 鉗子を磨きメスを砥ぎ、使い減りした消毒薬や軟膏の予備を用意する。
 それらが終わる頃には、窓の鎧戸から差し込む光は蟲の翅の青白い輝きから、朝日のやわらかな白へと色を変えていた。 開業までのこの時間は、忙しくはあっても自由な時間だ。やらなきゃいけないことはたくさんあるけど、その手順は僕の好きなように出来る。病症録を整理しながら服を着替えてもいい。先生の朝食を準備しながら、余ったパンを齧ってもいい。モップ掛けをしながら鼻歌を歌ったって、誰にも咎められることはない――
「トゥエル! トゥエルちゃん! 起きてるかい!」
 ――まあ、その時間がいきなり遮られるのも、よくあることなんだけど。
 僕はモップをバケツに放り込み、殺風景な待合室を横切る。玄関扉をがんがん叩いていたぽっちゃりしたおばさんは見知った顔――街警団シティ・ガード第七支隊の炊き出しを手伝っている家政婦さんだった。
「カティおばさん、どうしたんですか? 旦那さんの腰痛、ぶり返しちゃったんですか?」
「そんな場合じゃないのよ、トゥエルちゃん! 魚屋の奥さんがね、血を流して倒れてる男の人を見つけたんですって! それも二人も! レイケイ先生は!?」
「先生がこんな朝早くに起きてるわけないでしょう」
「あ――そ、そうよねえ。じゃあトゥエルちゃん、早く来て! 隊長さんが、現場で待ってるからって!」
「ゼールマンさんが?」僕は白衣の袖に腕を通しながら訊く。「場所はどこですか?」


          ▽    ▽    ▽  


 僕の名はトゥエル・ジャック。歳は十二。特技は裁縫。このアーヴィタリスの街で医師見習いをしている。まだまだ勉強中の身だけど、人手不足なせいもあって、最近ではこんなふうに先生の代わりに駆り出されることも増えてきた。
 でもこの初春の早朝、街警団の隊長さんから呼び出された僕に出来る仕事はなかった。造船通りの路地裏に転がっていたのは怪我人ではなく、とっくに手遅れな死体がふたつだったからだ。
 このへんの治安はあまり良いとはいえない。西に少し入った繁華街の裏には貧民窟があるし、ヌリアの水路の向こう側は流民街の入り口だ。過失に喧嘩に強盗に見せしめ、薄暗い路地に放置された他殺体が見つかって騒ぎになるのは、決して珍しいことでもない。
 しかし、それでも、あんな奇妙な死体を拝むのははじめてだった。
 僕は急ぎ足で帰り道を引き返す。ゴミ漁りしていたぶち猫が逃げていく。仕事場へ向かう職工さんたちとすれ違う。大通りを行く馬車に追い抜かれる。宿屋のおかみさんが玄関を掃いている。パンを焼く芳ばしい匂いがする。ニシン売りの呼び声が遠くから聞こえはじめる。街は新しい一日を迎えようとしている。
 部下のひとを診療所までの護衛につけてくれるというゼールマンさんからの申し出は、失礼にならないよう断った。加害者の残した血の足跡は帰り道とは逆方向に伸びていたし、街警団が人手不足であることも、僕はよく知っていたからだ。 恐れる理由は何も無い。掃除の続きのために、早く戻らなくてはならない――頭ではそう思っているのに、けれど足では人気ひとけの少ない近道を避け、大通りのほうへと遠回りしてしまう。犯人はどんな人物なのか。何故いくつものナイフを使ったのか。そもそも、どうして彼らを殺さなくてはならなかったのか? ゼールマンさんに頼まれて即席の死体検分をしたせいか、そんな疑問が寄せては返してくる。死体そのものは怖くないとしても、あんな殺しをやったひとがこの街のどこかに潜んでいると、やっぱり不気味だ。
 まぁ、そうして答えの出ない疑問を弄んでいられるのも、今のうちでしかないのだけど。
 顔見知りのおじさんおばさんに挨拶しながら、僕は診療所の前を通り過ぎた。
 ついでだから、日課のひとつを掃除より先に済ませてしまうことにする。診療所のはす向かいにある三階建ての安宿。店主のトマスじいさんには昔からお世話になっていて、看護用のベッドが足りなくなった時にはいつも間借りさせてもらっている。
 階段はほとんど真っ暗だったけど、慣れた身には手摺りも明かりもいらない。僕は二階の突き当たりまでずんずん進む。そして大きく息を吸い込んで肺に空気を溜めてから、そのドアを開けた。
 狭い部屋の中は廊下よりさらに暗く、目を凝らしても何も見えない。空き瓶や毛布や人の頭っぽいものを蹴飛ばしながら室内を突っ切って、奥の木窓を力いっぱい押し開ける。遭難者のような格好で部屋の中心に突っ伏していた身体がもぞりと動く。「むー」に濁点がついたような唸り声が切れ切れに続く。
「むーううううぅ……。しぬ……、しぬううぅ……」
「おはようございます、いつまでも転がってないで早く起きてくださいね」
「やめろぉ、とぅえる……。あけるな……まど……しめろ……しぬ……」
「何言ってるんですか、気持ちいい朝じゃないですか」
 とはいえ、工場や船の煙突が垂れ流す排煙のおかげでアーヴィタリスの空はいつもどんよりと重い。この時間は家々の炊事の煙が加わるからなおさらだ。けれどそんな煤けた空気も、いま背中側から流れ出ていく酒臭さに比べればだいぶマシだと思う。僕は窓から半ば身を乗り出して背伸びをする。
「くそう……あさっぱらからゲンキな声だしやがって……。さ、酒……」
「ありません」
「エール……」
「ありません」
「ワイン……」
「ありませんってば」
「…………じゃあ、メシ」
「診療所に用意してますから食べたかったら起きてください」
「……くそう、使えない弟子め……」
「使えないとは何ですかこっちはもう港まで行って一仕事してきたっていうのに。ついでだから呼び売りペドラーでオレンジ買ってきました。酔い覚ましにどうですか、レイケイ先生」
 毛布のふくらみから痩せた右腕がもぞりと伸び、床に散らばる酒瓶をがちゃがちゃ掻き分ける。僕はその手の中に罅の入ったメガネを握らせる。うつ伏せになっていた浅黒い顔がぐっと仰け反り、それを装着する――がしゃん。そしてそのまま、先生は再び酒瓶の軍団の中に突っ伏した。
 ……レイケイ・シャーダー。四一歳。我が師匠、我が雇用主、我がロクデナシ。アーヴィタリス西第二湾岸地区カルゼン十七番地に門を構える、『レイケイ施療医院』のオーナー兼ドクターである。
「もぉぉだめだ。もぉぉ無理だ。我が一番弟子よ、あとはお前に任せる。お前なら立派にやっていける。店のことは頼んだ。そして俺の老後の面倒を頼んだ」
 早速オーナーでなくなってしまった。
「いやいや。店はもちろんですけど、先生の老後のことなんて知りませんから。あーほら窓のそと見てください、ベッサさんのところのおばあちゃんがもう診療所の前に並んでますよ」
「いいよほっといて……。どうせシャックリかなんかだろあのバアさん……そもそもまだ開業前じゃねェか」
「何言ってるんですか『病気に貴賎も休日もない』って僕に教えてくれたのは先生ですよ。さぁ、あと五分以内に顔洗って着替えて手洗いを済ませてくださいね」
 炊事に洗濯。掃除に買出し。ついでに主人の世話まで加わって、朝のお勤めはますます女中さんじみてくる。でもそれもそろそろ終わり。僕はオレンジを剥きながら時計を見る。あと十分もすれば、この飲んだくれも目を覚ますだろう。そしてそうしたら、この酒臭さとは別の意味でアルコール臭にまみれる一日が始まるのだ。


          ▽    ▽    ▽


「やぁお待たせベッサさんのおばあちゃん、今日も元気そうだね」
「元気じゃないよぅレイケイ先生。こないだうちの近くに出来た工場のおかげか、もう咳がひどくてね。後生だからはよ診ておくれ」
「はいはい、お任せお任せ。じゃ、こっちに横になってねー」

 ――さて、ここでひとつ問題です。
 僕ことトゥエル・ジャックが見習いを卒業し、このアーヴィタリスの街で医師を名乗りたければ、いったい何が必要になるでしょう?

「レ、レイケイさん……。腹が……、な、なんか知らねェけど……腹がずっとギュルギュルしてヤベェんだ……。お、俺ァ一体どうしちまったんだ……?」
「どうしたもこうしたもお前、そりゃあ食あたりなんじゃないか。朝メシは何食った? フェルパニ通りの屋台でキドニーパイ? ……あー、何か変な混ぜモン入ってたんだろうな。しょうがないなあ。とにかく下剤で腹ンなか空っぽにしとけ。あと水をたくさん飲んでな」

 答えは簡単――“何もいらない”だ。
 診療所や手術台といった設備は勿論、薬の一粒、注射器の一本、いや医学書一ページ分の知識すら必要ではない。我は医師なりと声をあげれば、誰であれ看板を掲げて診療を行い、その対価を受け取ることが出来る。そのため場末には心無い自称お医者先生がたくさん横行していて、詐欺まがいどころか、血液型もろくに調べずに輸血をするような殺人的な“治療”が頻発している。

「見ろトゥエル。溶けたガラスが掛かって熱傷を負うと、皮膚にこんな水ぶくれが出来るんだぞ」
「痛そうですねえ」
「なーレイケイ先生よう。タダで診てくれるのはありがたいんだけどよぉ……」
「この膨らんだ皮膚は死んでるんだが、感染症を防ぐためにも、次の皮膚が傷の下に出来るまでは剥がさないほうがいい。だがこのままだと破れやすいので、清潔な針で小さい穴を開けて溜まった水を抜く。やってみ」
「わかりました」
「前のツケも払ってねェし、文句言うつもりはねぇんだけどよぉ。オイラをチビ先生の実験台にすんの、やめてもらえねえかなあ……」

 一応の補足をすると、公的な教育の場として、アーヴィタリスにある八大学のうち三つが医学部を開いている。卒業生には“正規医療従事者免許”なる仰々しい認可状が交付され、市議会と貴族院の共同出資で設立された医師会からさまざまな援助を受けることが出来る。
 だが先にも述べたように、現状、医師を名乗るにはそんな認可状など必要ではない。
 その理由はごく単純――加速度的に増え続けるアーヴィタリスの人口に対し、医師の数が圧倒的に不足しているため。認可状を持たない“自称医師”のすべてを取り締まってしまったら、とても手が足りないため。そして何より、大学を卒業するまでにかかる学費が、一般市民には絶対に払いきれない高額なものであるためだ。

「いででででッ、おいセンセエ、もっと優しくやってくれよォ!」
「うるさいな、大の男が脱臼くらいで騒ぐんじゃないよ。おいトゥエル、濡れタオルもってこい。……はい、これ噛んで。息吸ってー吐いてー。よし肩はめるぞ。――おらぁッ!」
「んぎゅうぁああああッ!?!?」

 世の中の大抵がそうであるように、当然、医師にも医師の格付けランクというものがある。
 もっとも権威があり、もっとも高級取りなのは何といっても貴族付きの典医だ。芸術家や武術指南番と同じように、優れた医師を召抱えることは上流階級のステイタスのひとつである。そしてそんな貴族の暮らしぶりを真似したがるのは、成功した商売人の習性でもある。
 権威を求める彼らにとって、お抱えの対象となるのは認可状パス持ちの医師以外ありえない。医師の側だって全員とは言わないが、選べるなら金払いの良いほうを選ぶ。
 そうして雇われた専属医や訪問医の下に、大学の付属病院勤務、従軍医、教会付きの薬師などが続いて、下町の個人開業医なんかは、それこそ“自称”の詐欺医者を除けば最底辺のランクとなる。

「先生助けて! うちの子がっ! うちの子が朝からすごい熱で! うちの子が熱でうちの子が先生っ!」
「あー奥さん落ち着いて。意識がはっきりしてるうちは大丈夫ですから……ようマイク、この指何本に見える? 3本? よし、じゃ舌出して。上着脱いで。ようしいい子だ。んじゃあ注射すっからな。あっちのオッサンみたく泣くんじゃないぞ」

 我が施療医院は、まさしく“下町の個人開業医”だ。
 医師はレイケイ先生ひとりだけだし、その先生も認可状など持ってはいない。当然医師会からの援助など無縁であり、診療所も潰れた飲み屋を改装したものに過ぎない。下働き兼見習いも僕ひとりだけ。あとは御年七十歳を数えるベテラン産婆さんが、空いているときに手伝いをしてくれるくらいだ。
 が。
 言うまでもないことではあるけれど、医師としての格付けと、その技量は比例するものではない。

「まだか、先生!? 兄弟のヤツ、口から泡吹いちまってるぜ!」
「ちょっと待て、こっちの弾を抜くのが先だ。あと少し……。ふう――取れた取れた。肋骨で止まってて良かったな。肺に抜けてたら死んでたぞ」
「せ、先生、早くしてくれ!」
「わかってる――トゥエル、縫合頼むぞ!」


          ▽    ▽    ▽


 喘息持ちのおばあさんとか、混ぜ物の入ったパイで食あたりした郵便屋さんとか、腕を火傷したガラス屋さんとか、崩れた荷物で肩を外した水夫さんとか、熱を出した子供とそのお母さんとか、果ては銃創を負ったヤクザ屋さんとか。レイケイ施療医院には朝から晩まで、ひっきりなしに患者さんたちがやってくる(あるいは担ぎ込まれてくる)。これは言うまでもなく、先生の技量が町の人々の信頼を集めている証拠だ。
 そんな先生を手伝って、切ったり貼ったり縫ったり盛ったりし続けているうち、僕の一日はあっという間に過ぎていく。
「…………」
「…………」
 この日の晩飯は肉屋のおばさんに差し入れてもらったボイルドビーフだった。僕も先生も疲れきって、軽口を叩くのも億劫でいるくせ、食べるほうの口は良く動いた。
 診療所の経営は、順調とはいえない。
 僕たちが一日あたりに診ている患者さんの数は普通の訪問医の百倍近いと思う。けれどお互いの患者さんたちの収入を合計したら、こちらのほうが圧倒的に負けてしまうだろう。この界隈で働くひとたちは毎日を生きるのに精一杯で、誰もがやすやすと診察費を払えるわけではない。それどころか、身体を壊しても病院に行くという選択肢を思い浮かべることさえ出来ないひとだって多いのだ。
 ちなみに僕も、先生からは小遣い程度の給金しかもらっていない。見習いの身としてはもらえるだけありがたいし――それに毎日の仕事を通じて得られる技術や経験は、学校でお金を積んで授業を受けるのと、勝るとも劣らないものだと思う。 薬の処方。麻酔の分量。血液鑑定。注射針の角度。ずれの少ない包帯の巻き方。喘息と肺炎の見分け方。特に手術後の縫合に関しては、もう先生より上手い自信さえある。僕は本当に、本当に多くのことを学ばせてもらっているのだ。

 ――夜。
 終業し、患者さんたちのいなくなった診療所は子供の泣き声も待合室からのがやがや声も絶え、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。
 僕とレイケイ先生は、予備の手術台を挟んで向き合っている。
 そこに寝かしつけられているのは、三十代半ばくらいの、男のひとの死体だ。
 苦悶に歪んだ表情。眼窩から飛び出しかけた瞳。頚部にはっきりと残る荒縄の痕。
 まだ死後硬直がはじまって間もないそれは、夕刻、ペストルドンの処刑広場で断罪された死刑囚の亡骸を検体として買い取ったものだ。
 僕は先生に、地下倉庫から持ってきた『道具』を渡す。
「――じゃ、はじめるぞ」
「はい」
 まだお酒を口にしていない先生は真剣そのものだ。患者さんをリラックスさせるためのえくぼも今はなりを潜めている。三方に立てられたアルコールランプの光が複雑な影を落とし、手にした針の先端が鈍く光る。
 終業し、患者さんたちのいなくなった診療所。
 たった今から、そこでもうひとつの『授業』がはじまる。






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