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 ちぃぃん――……ぃぃん――……ぃぃん――…………ぃぃん…………

 硬質なその音は深夜の静寂を打ち破り、長い長い残響となって石畳の街路のうえを駆け抜けていった。
 私は餌柱に肩をあずけて、竦みあがりながら、ただじっとそのこだまが聞こえなくなるのを待つ。
 飲み込む唾の音と、脈打つ心臓の音、そして餌柱から飛びたつ蟲の羽音。それ以外に何も聞こえなくなって、さらに百数えてから、ようやく一歩を踏み出す。かつん、と硬い音が新たに加わる。青い影がちらちらと足元をついてくる。
 ――靴、返してもらうんだったな。
 私の足の裏側は、左の指先を除いてほとんどあの錆びた皮膚に覆われている。おかげで釘や尖った石を踏んでも何も感じないけど、こんなふうに整備された路上じゃ足音を殺して歩くのは不可能だし、ついでに、うかつに馬車留めの金具なんかを蹴ってしまうと、あんな良い音がしたりする。
 人気のとだえた住宅地を、私はこそこそと歩き続ける。
 西湾岸の貧民窟から、裏通りを縫うようにしてエトラン河の上流側へ。
 コラーニイ・ブリッジを過ぎ、中州ミル島を過ぎ、タリス大橋を通り過ぎる。
 ここまで来ると、目に映る町並みもはっきりと変わってくる。工場が少なくなって、大きな集合住宅が増える。安普請の平屋建ては目立たなくなり、小さな庭と高い鉄の柵を備えた邸宅まで見られるようになる。歩道の石畳が欠けていることもないし、レンガの壁には落書きもされていない。河のずっと向こうにはマルセアの城砦が、はるか遠くに置かれた灰色の指貫きのように聳えているのが見えた。
 足音を出来るだけ立てないようにしながら、夜の街をこそこそと歩き続ける。
 掃除夫が洗浄剤を吹きかけている最中の通りを迂回する。
 灯火守りの松明の火が行過ぎるまで、建物の陰に身を潜めてやり過ごす。
 ……こういうところは、私向きの場所とは言い難い。真夜中でなければ、何も理由がなければ、普段は絶対に足を運んだりしない。市議会通りや旧公領オールドダッチあたりのように、うろつくだけで私典兵マスケッターに追い払われるほどではないけど、浮浪児丸出しの格好のままでは、たとえばあそこに見えるカフェテリアや、向こうに建っている綺麗なレストランには、絶対に入れてもらえないだろう。
 ――まあ、私の場合は、服装以外にも問題があるわけなんだけど。
 忍び込む店の目星をつけるまで、ひどく時間が掛かってしまった。
 裏口の鍵を壊して戸をくぐる。蟲の羽の灯りが届かない室内は真っ暗で、ほとんど何も見えない。私はばたんと閉まった扉に背中を預け、そのまましばらく、目が慣れるのと、心臓の動悸が収まるのを待った。
 一分、
 二分、
 三分以上息を殺していても、周囲に騒ぎが起きたり、店の中に私以外が飛び込んできたりするようなことはなかった。ありがたいことに、私がたてた物音は誰にも聞きとがめられずに済んだらしい。
 緊張の糸が不意に緩んで、唇からは思わず安堵の息が漏れる。
 営業を終えたレストランの厨房は洗剤の匂いと、生ゴミのような饐えた臭いがかすかに漂っていた。
 ――泥棒は、出来ることならやりたくない。
 自分で言うのもなんだけど、性格的にこういうのはあまり向いていないんだと思う。やましいことを考えているときには、馬の嘶きや酔っ払いの歌声が聞こえてくるだけでびくりとしてしまうし、誰かの家や店に忍び込むときには、捕まったらどうなるかだなんて想像してしまう。度胸だとか勇気だとかは、私には縁遠い言葉だ。
 付け加えるなら、手先だって器用とはとても言えない。特別目端が利くわけでもないし、走る早さは人並みか少し遅いくらいだし、怪盗アリー・カーリーのように屋根から屋根を華麗に飛び移ったりなんて芸当は絶対に出来っこない。
 ついでに足音がうるさいのは、先刻述べたとおりだ。
 私はそっと裏口から離れて、暗い厨房の中をほとんど手探りで横断する。棚に仕舞われたたくさんの食器やろうそく立て。色とりどり、大小さまざまなお酒の瓶。大鋏に鉄串に鋸、刃の分厚い牛刀、ぎざぎざのパン切り包丁、凶器のような調理器具の群れが壁に並んでいる。豚や牛の枝肉を吊るす大きなフック。レルエッタならすっぽりおさまってしまいそうな大きな鍋。私でも潜り込めそうな焼き釜の入り口。それから……
 ――あった。
 鉄で出来た鳥のくちばしのような、水道の蛇口。それがふたつ。
 まだ私の生まれるか生まれないかの頃だけど、街全体で赤痢が大流行したのをきっかけに、アーヴィタリスの上下水道はかなり改善されたという。そして特に裕福な地域には、お水が出る蛇口とは別に、もうひとつ、火傷するくらい熱いお湯が出る栓が取り付けられた。すぐそばにある鍵つきの小箱にコインを入れると、区画ごとの地下に敷設された大型ボイラーで沸かした熱湯が一定量出せる仕組み……らしい。
 栓を捻っただけでお湯が出てくるなんてちょっと信じられないし、どうして地下の水が上に上ってくるのかとか、どうやってお湯の量を測っているのかとか、細かいところがどうなっているかは私にはわからない。
 ただ、この小箱の中に硬貨が入っているということだけわかっていれば、それで十分だ。
 箱に取り付けられた五角形の錠前に、私は右手の指を添える――親指とひとさし指と中指の、その錆びた金属の皮膚を。
 そして考える、考える、考える――……“ぶっ壊れろ”“ぶっ壊れろ”“ぶっ壊れろ”。

 ばきんっ。

 にぶい音とともに蓋を押さえていた金具がねじくれ、そして、砕ける。裏口を閉ざしていた鍵と同じように。
 中に入っていた硬貨は二十枚だろうか、三十枚だろうか。私は指に触れたはじからそれをポケットに押し込む。枚数を数えてる余裕なんてなかった。錠前を壊したときの大きな音がまた焦りを掻き立てていた。忍び込んでいる時点で酌量の余地なんてないけど、万が一この場を誰かに押さえられたら良くて牢屋行き、最悪石を抱えて魚の餌の刑だ。もちろん捕まった時点でぼこぼこにされることは間違いない。換気口の向こうでちらつく蟲の影が怖い。硬貨のぶつかるじゃらじゃらという音が怖い。これを抱えて来た道を戻らなくてはならないと思うとぞっとする。けれどやらなかったら飢え死にだ。怖かろうが向いてなかろうが、やる以外に他にない。壊れた錠前が床に落ちて跳ね返る。最後の硬貨の一枚が滑って指から逃げる。歯噛みするような焦りとともにそれを取り上げつつ、私はさっと踵を返し、調理器具の並ぶ厨房を後戻りする。
 裏口のドアノブに手をかけたところで、ふと、足が止まった。
 ぐずぐずしてられないのはわかってる。
 でも扉の外は静かで、まだ私の不法侵入がばれたような気配はない。
 そして、こんなときに限って、私は思いついてしまった――昨日からずっと抱えていた悩み――レルエッタをどうするか――その答えとなるかもしれないことを。


          ▽    ▽    ▽


 厚切りのベーコンに、鱈のサンドイッチ。
 半円型のレッドチーズに、湯気の立つふかし芋。
 トマトの缶詰と煮豆の缶詰。それから、生のままのにんじんが一本。
「……これ、どうしたの?」
 レルエッタは目を丸くしてそう呟く。割れた木窓から差し込む朝の光を受けて、廃墟の床に並べられた獲物の数々はきらきらと輝いているように見える。
「盗ってきたのよ」と私は答えた。「ま、こっちのじゃがいもとサンドイッチは朝市で買ってきたぶんだけど。そのお金だって、盗んだものには違いないしね」
 ついでに言うと、生のにんじんはレストランから缶詰やらチーズを抱えて逃げるとき、慌ててひっつかんできてしまったものだ(食べるぶんには問題ないし、別にいいんだけど)。
「何よ、その顔」物問いたげなレルエッタに向け、私は拳骨を見せながら言った。「あんたね、もし盗みが悪いことだなんて説教めいたことぬかすんだったら――」
 ぶんぶん。レルエッタは慌てて首を横に振る。
「じゃあ、何なの?」
 彼女は床に置かれた食料でも固められた拳骨でもなく、私の眼をじーっと見つめて、それから言った。
「サーナが、あぶなかったんじゃないかな、って……」
「…………」
 危なかったし、怖かった。レストランの裏口から出た直後、黒いでぶ猫がすごい勢いで目の前を走り去っていったときには心臓が止まるかと思った。
 けど私の口から出たのは、こんな言葉だった。
「――ふふん。どうってことないわよ、これくらい」
 私はレルエッタから視線を逸らして髪をいじる。
 まったく、強がりもいいところだ。今頃あのレストランでどんな騒ぎが起きてるかと思うと、捕まりっこないと判っていてもおそろしくなる。大丈夫だ――私は自分で自分に言い聞かせる――誰にも見られなかったし、証拠になるものだって何もない。
 レルエッタは私の見栄に気づいた様子もなく、「よかった」と小さく笑った。「サーナがもどってきてくれて、ほんとによかった」
「……大丈夫よ。いちいち心配されなくても、私はこの街のことをよく知ってるんだから。あんたと違ってね」
 うん、とレルエッタは頷いて、それからこう続ける。
「それに――ひょっとしたら、サーナはもう、ここに帰ってこないんじゃないかなって思ってたから」
「――……」
 私は口を噤んだ。
 正直なところ、本当にそうしてしまおうかと迷ったのは一度や二度ではない。その考えは、まだ私の頭の中で強く幅を利かせている。私にとってのレルエッタは所詮、人買いの馬車で居合わせた知らない子供でしかなく、そして今のところ、ただの足手まといでしかないからだ。
 どうして彼女に手を差しのべたのか。どうしてここに戻ってきてしまったのか。……それは自分でも、未だよくわからない。
「靴を剥ぎ取ってからにするわよ、あんたを見捨てるときはね」
 そう言い放って、私はベーコンに噛り付いた。
 鉄の足の裏を持つ私にとっては、靴は足音を隠すためと、皮膚を他人に見せないための道具でしかない。なかったとしても歩くことに問題はないし、それに、また人買いから逃げたりしなくちゃならなくなったときに、足を痛めたレルエッタを担いで走るような真似はしたくなかった。彼女に靴を貸した理由はそんなところだ。……血だらけになっていた足の裏が痛そうだったという理由も、まぁ一応、ちょっとくらいなくはないけど。
 私たちは額を突き合わせるようにして、サンドイッチやじゃがいもをたいらげた。言うまでもなく、市場で買ってきたばかりのそれらは“乞食のシチュー”とは比べ物にならないほど美味しい。レルエッタも、今日は泣きながら食べたりはしなかった。
 そうして人心地ついてから、私はポケットを裏返し、レストランから盗んできたお金を積みあげる。
 半ルード硬貨で10枚の山がみっつに、余りが6枚。――合計18ルード。
 少し安心する。これだけあればしばらくは、飢え死にの心配をする必要はない。いわば生命いのちの保障がされたようなものだ。
 床に積まれたみっつと半分の山を、私と差し向かいの格好でレルエッタも眺めている。しかしその碧の瞳には、さっき食べ物を眼にしたときのような歓心はない。彼女にとってこれらの硬貨は、模様の彫られた銅の欠片でしかないのだと思う。
「――あんたにも、食べた分くらいは稼いでもらわないとね」
 いじわるするように私は言った。案の定、レルエッタは上目遣いでこちらを見、それから困ったようにこう答える。
「でもわたし、ドロボウとか、したことない……」
 ふん。
「そんなこと、あんたに出来るなんて思ってないわよ」
 こんなおどおどしたレルエッタでは、よぼよぼの露天売りから林檎ひとつ盗むことさえ出来やしないだろう。私は小さく鼻を鳴らして、傍らに転がしてあった刃物を手にした。
 レルエッタは小首を傾げる。
「はさみ?」
 じゃきん――じゃきん。
 私の手の中で刃と刃が澄んだ音を鳴らす。カニの脚や鳥の骨を切るのに使う、見るからに頑丈そうなごついやつだ。小銭や缶詰やチーズと一緒に、あのレストランの厨房から失敬してきたものである。
「ぶった切るのよ、あんたのそのなっがい髪をね」私は閉じた鋏の先でレルエッタの耳のあたりを指し、こう続けた。「言っとくけど、可愛くしてもらえるなんて思わないでね。私、他人の髪を切ったことなんてないし、そもそもこれはまず、あんたを人目につかないようにするためなんだから。その長くてきらきらした髪、このスラムじゃ目立つったらありゃしないんだから」
 レルエッタは小さく身じろぎをした。まるで突きつけられた切っ先の鋭さに怯えたかのように。そのしぐさにあわせ、彼女の肩口に掛かっていた髪の房がはらりと零れ落ちる。
 さらさらで、つやつやで、少しだけ煤に汚れた、うすい金色の髪の毛の束が。
「それに、あんたは知らないだろうけど」私は鋏を弄びながら言う。「そんなふうに長くて綺麗な髪って、美容室とか、かつら屋とかにもってけば買ってくれるのよ。私は売ったことがないからいくらになるかはわからないけど……まぁ、何日か分のご飯代くらいにはなるでしょ。目立たなくなって、ついでにお金にもなるなら一石二鳥じゃない。我ながら良い考えだと思う、ん……だけど」
 俯き、まるで守ろうとするかのように髪の房をかき抱くレルエッタを前に、私は少し言葉をためらう。垂れ目がちな彼女のまなじりには、また、涙の粒が溜まりだしていた。
 私は私が間違ってるなんて絶対に思わない。髪を切れと言っているのは純粋に彼女のためでしかない。目立たなくしなくちゃいけないのも、お金が必要なのも本当のことだし、冷静に考えてみれば、私が彼女のためにそんな労力を割いてやらなきゃいけない理由はこれっぽっちもありはしないのだ。
 でも、レルエッタの価値観は私のものとはぜんぜん違う。それはこの短い付き合いで何度も思い知らされてきた。彼女にとっては、髪は命より大事なものなのかも知れない。服も家も奪われ、見ず知らずの街に連れてこられたレルエッタにとっては、過去を偲ばせる唯一のよすがなのかも知れない。
 そんな感情を無視して、彼女を力づくで言いなりにしようとしたのなら……髪だけとはいえ、彼女の身体を無理やりお金に換えようとしたのなら……それはあの人買い連中のすることと、あまり変わらないのではないだろうか……?
「何よもう――嫌そうな顔してくれちゃってさ。だってしょうがないじゃないの。あんたは1ルグだって持ってないし、仕事も盗みもろくに出来やしないんだから。じゃ聞くけど、他にもっとマシな方法があるっていうわけ? それならさっさと――」
「……いいよ」
 レルエッタはこちらを見ることなく、小さく頷いた。
「あの、でも、本当はいやだけど……」彼女は細い指で毛先をつまんで、蚊の鳴くような声で、「……でも、サーナがそうしたほうが良いっていうんだったら……そのほうが、きっといいんだと思うから」
「…………。な、なによ……。わかってきたじゃないの」
 ぶっきらぼうにそう答えると、今度は私が視線を逸らす番になってしまった。理由はよくわからない……んだけど、何かこそばゆい。腰の後ろあたりがむずっとする。別に不愉快なわけでもないし、レルエッタは素直に従ってくれたんだし、気にすることもないんだけど。
「……じゃ、やるわよ」
 私は早口でそう言い、立ち上がって彼女の背後にまわる。
 形の良いつむじを見下ろす。左耳の上あたりに手を添え、軽く梳いてみる。生身の指先に伝わる髪の毛の感触は、これまで触れたどんなものよりも柔らかい気がした。
 鋏を構える。
「ま、まって。ぬらさないの?」
「――今そうしようと思ってたとこよ」
 こうしてじっくり向かい合ってみると、レルエッタの髪は本当に綺麗なのだということがよくわかる。手触りもしなやかさも色艶も私なんかとはぜんぜん違う。一本一本に張りがあって、降り注ぐ太陽の光を受けると、それぞれが別のものであるかのように瞬くのだ。
 こんなにきらきらしたものは、空気の澄んでいる朝の海原くらいしか見たことがない。
 しょき……しょきん。
 鋏を握る右手が、少し震える。
 レルエッタがびくりと肩をすくめる。
 そして私の左手には、切りはずされた髪の毛の束が取り残されている。
 長い。意外に重いようにすら感じる。根元から毛先まで、ひょっとしたら一メートル近くあるんじゃないだろうか。
 私は釣った魚の体長を調べるみたいに、手にした髪の束をしげしげ眺めた。ふと気づくと、不安そうな様子でこちらを見上げてくるレルエッタの瞳と目があった。
「――あんまり動かないでね。耳、切り落としちゃったら、もう生えてこないんだから」
 レルエッタはこっくり頷いて、また顔を正面に戻した。
 私は再び刃を開く。上手く切ろうなんて思ってないけど、怪我させたいとも思っていない。あまり汚くすると買値が下がるかも知れないから、床に落とすのもよくないだろう。鋏を握る右手が震える。泥棒のときより緊張しているかも知れない。しょきん、しょきん。私が刃を閉じるたび、レルエッタの頭が少しずつさびしくなっていく。麦畑の刈り跡のような短髪の下に、白い頭皮が覗き見える。うなじの上あたりの髪を持ち上げる。するとレルエッタはむずりと身体を震わせた。
「ちょっと、動かないでってば」
「……だって、くすぐったいんだもん」
 我慢しなさいよ、と私は言って、レルエッタのこめかみをちょんと叩いてやった。
 散髪を続ける。だんだん慣れてきた気がする。私が刃を閉じるたび、レルエッタの膝の上に積もる金色の繭が大きくなっていく。しょきん、しょきん。思ってたより、ちょっと楽しいかも知れない。うまく言えないけど、何か、貴重な芸術品を切り刻んでしまっているような、一種の背徳的な快感すらあって、背筋がぞくぞくしてくる。そしてそれが感染したかのように、レルエッタも膝と膝をもぞもぞとしはじめる。
 ――ちょ、ちょっと、
 ――動くなったら、
 ――ああ、もう、







おうちにね、犬をかってるの。

おっきくて、ちゃいろくて、もふもふしてる男の子。なまえはフルート。

ほえないし、とってこいも上手いし、おしっこのばしょも守るいいこなんだけどね、

でもおかあさんやメジナさんが毛を切ろうとすると、とってもいやがるの。

メジナさん? ――あ、うん。おてつだいさんだよ。

それでね、このまえの夏にメジナさんがとこやさんしようとしたときには、

フルートがまたいやがって、はさみをくわえて逃げちゃったの。

しつじのハンスさんとか、おりょうりがかりのケーイさんとか、

みんなでフルートをつかまえようとしたんだけど、なかなかつかまらなくってね。

はさみをくわえたフルートはお庭をかけまわったり、プールをおよいだり、

かいだんをぴょんぴょんのぼったり、わたしのベッドにもぐりこんだり、

うまごやにとびこんで、お馬さんたちをびっくりさせたりしちゃうの。

さいごにはおかあさんがおこって、つかまったフルートの毛をざくざく切って、

まるぼうずみたいにしちゃったんだ。

それでね、おかあさんはこう言うの。

こんなにみじかく切ったんだから、また毛がのびてくるまでのしばらくは、

こんな追いかけっこはしなくてすむでしょう、って。

でもね、それからフルートは、はさみをくわえたら

追いかけっこしてもらえるんだって思いこんじゃってね。

いつもはいい子なのに、切らなきゃいけない毛なんてもうぜんぜんないのに、

うえきやさんのはさみをくわえちゃって、それから、それからね……



                       ▽    ▽    ▽


 魚心あれば水心というやつで、王侯貴族や演劇役者がかつらを欲しいと思えばそれを作り出す職人さんがいる。伸ばした髪を売ってでも金が必要だという人がいるなら、それを買い取ってくれる場所もある。
 湾岸地区の繁華街裏で見つけたその床屋は、私にすらもあっさりと門戸を開いてくれた。客層はたぶん質屋ポーンショップと同じようなものなのだろう。服を質入したり髪を売ったりするのは、生活に困った人が多いのだ。だから多少みすぼらしい格好をしていても、門前払いされるようなことはない。
「こりゃあ上物だわねえ。色艶も長さも申し分ないし、癖もほとんどないじゃないか。フケやらで何やらで表面はちょっと汚れてるけど、芯には煤がぜんぜん染み込んでないみたいだよ」
 床屋の女主人は口笛でも吹きそうな上機嫌でそう言った。痩せた身体、蝋のような皮膚。紫に染髪している長いもつれ髪。ちょっと年齢が掴みにくい――老けた三十代な気もするし、若作りしている五十代のような気もする。
「この街じゃあこんな良い髪はちょっとお目にかかれないよ。きっと良いモノを食べて、空気の綺麗なところで暮らしてきたんだろうね。それにこりゃまた、ずいぶんと若い子のものみたいだわねえ」
 女主人はレルエッタの髪をためつすがめつ眺め、うっとりとため息を吐く。
「どうしてそう思うわけ?」私はついつい聞いてしまう。髪の毛を見ただけで元の持ち主の年齢まで見破るなんて、ちょっと信じられなかった。
「そりゃあわかるさね。こちとらお前さんよりうら若い年頃から、毎日毎日ひとさまの髪と向かい合って生きてきたんだからさぁ。……それにしても勿体無いねえ。あたしに切らせてくれりゃあ、もおっと上手く揃えてやったのにさ」
 そんなことで値切られてはたまらない。私は慌てて言った。
「で、いくらで買ってくれるの?」
「ふん、そうだね。――3ルアイードでどうだい」
「!?」
 聞き間違いかと思った。ルアイードは200ルード、つまりルグ硬貨2000枚分だ。そんな大金、聞いたことはあっても見たことない。いやそれどころか、ルアメン王の顔の浮かんだ本物の銀貨に自分が触ることすら想像した試しがなかった。
 私は驚きをひっこめるよう努力しながら、それでいいわ、と頷いた。
 女主人はレルエッタの髪をずだ袋から白いナイロンの袋へと移し変え、大事そうにそれを抱えて店の奥へと引っ込む。
 私が案内されていた従業員室は従業員のための部屋というよりむしろ洗濯場で、壁から壁にかけられたロープには大量の刈り布が昆布のように干してあった。床のあちこちには赤や黒や茶色をした短い毛が散らばっている。店の表のほうからは鋏の音と、客と店員がおしゃべりする複数の声が聞こえてくる。髪を切るだけで――客に何も渡さないでお金になるなんて、いい商売だといつも思う。
「ホラ、落とさないように気をつけるんだよ」
 取引の代価を寄越して、女主人はにやりと笑う。そんなこと言われるまでもない。金貨を握ったこの右手は、レルエッタのところに帰るまでポケットから出さないつもりだ。
 私は床屋をあとにする。
 日はすでに暮れかけており、埃っぽい街路には家々の影が長く伸びている。陽光を嫌う蟲たちはまだ地下のねぐらから出てきていない。闇に覆われることのないアーヴィタリスでは、今が一日のうちで最も暗い時間帯かも知れない。
 砕石で舗装された足元がぐらぐらと揺れる。
 膨らんだ熱気球みたいに、頭の中がふわふわする。
 安宿や娼婦長屋の並ぶ裏通りを歩きながら、私はこれまでにない奇妙な感覚に陥っていた。原因はもちろん右手の中の銀貨三枚だ。大金すぎて、こうして固く握り締めていても現実味がない。心のどこかが麻痺している。貧民窟に食料を持ち帰るときのように何度も後ろを振り返っているけれど、眼の焦点がやけに近くにしか合わなくてあまり意味がない。カツカツ響いているはずの自分の足音さえも耳に遠い。
 ――もし贋金だったら、どうしよう。
 ふわふわとする頭の中でおかしな妄想がはじまる。
 繰り返しになるけれど、銀貨を手にするのなんて生まれてこれが初めてだ。真贋を見抜くことなど出来るわけがない。硬貨に歯を立てるのは、あれは確か金の含有量が多ければ柔らかくて歯型がつくせいだ。というか銀貨でさえこの有様なのに、クラウンルグなんて触れただけで失神してしまうんじゃないかと思う。
 ――握っているのが、実は銀貨じゃなかったらどうしよう。
 むかし辻でやってた大道芸のひとつが不意に思い出される。マジシャンが念を篭めて拳を広げると、確かにそこに持っていたはずの硬貨がどこかに行ってしまうというやつだ。あのとき消えたのは半ルード硬貨だったけど、今あれと同じ現象が私の手の中で起きていないとは限らない。床屋を出てからこのかた、私の右手はポケットの中に突っ込んだままである。何か想像もつかないトリックによって、銀貨と銅貨がすりかえられていないとは決して言い切れない。
 ――鉄柵だとか、錠前だとかのように、ねじ切ってしまったらどうしよう。
 私の皮膚の普通でない部分は、私の意志や感情を伝達するという性質がある。鉄で出来たものに触れて衝動を強く強く篭めると、握力ではどう頑張っても不可能な破壊を引き起こせたりする。銅でも同じことが出来るのは実証済みだ。けど、銀はわからない。やったことがない。やりたいなんて決して思わない。やりたいなんて決して思わないけど、いま、もし、万が一にも“ぶっ壊れろ”なんて念じてしまったら……いや、やっちゃダメだ。取り返しがつかない。絶対だめだ。だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、だめだ――
 ――ごつん。
 目の前で星が散る。益体もないことを考えてるうち、うっかり餌柱に正面衝突してしまった。
 私は柱に額を預けたまま、二度、三度と深呼吸を繰り返した。変なめまいがする。心臓が不整脈を打って胸苦しい。少しは気持ちを落ち着けないと、まともに歩くことすら難しそうだ。
 すぅう、はぁあ。
 すぅう、はぁあ。
 石炭を燃やした煤と車輪が削った法面の埃、生ゴミと焼き魚と馬糞とコーヒーの臭い。それらの入り混じった空気を肺に循環させる。
 不意に飛んできた小石の粒が、右の膝に跳ね返って落ちた。
 顔をあげる。五歩ほども離れていないところに露店を出していた帽子売りが胡散臭げな目で私をねめつけている。彼が何を言いたいのかはよくわかる――“何をしてるんだ、ぼろ娘め。万引きでも狙ってやがるのか。ぶん殴られたくなけりゃあさっさと俺のシマから離れやがれ”とか、まあそんなところだ。
 いつもの私なら、あんな眼で睨まれたら一目散に、まっしぐらに逃げ出してしまうだろう。
 けれど今日は違った。不思議なことに、頭の中のどこかから予想もしないような反発心がわきあがってきて、それが一時的に私の身体を支配してしまった。
 私は逃げることをせず、ちょっと手を伸ばしたところにある手押し車――そこに満載された帽子の山に視線を送る。
 チェック柄のつば付き帽、10ルード。
 リボンつきの大きな麦藁帽子、6ルード半。
 エセ紳士が好みそうな安っぽい山高帽、22ルード。
 邪険にされるおぼえはない。帽子屋が胡乱げにしているのはこちらが無一文だと思っているからであって、しかし今の私は、その気になればカートの帽子をぜんぶ買い占めることだって出来る(かもしれない)のだ。
 ――もちろん、そんなことはしないけど。
 私は後ずさりするような足取りで帽子屋から離れた。
 耳の内側に、ふと声がよみがえる。――『男の子になっちゃったみたい』――散髪を終えた直後のあのとき、レルエッタは明るい口調でそう言っていた。じわじわ染み出していく桶に映った彼女の新しい髪型はかわいらしいとか、女の子らしいとはとてもいえない。心得のない私に刈り取られたせいでざんばら状態になってしまっているわけなのだけど、鋏で怪我させなかっただけでもむしろ上出来としたい。――『あたま、かるくなっちゃった』――形の良い耳や意外に広いおでこが露になって、微笑むレルエッタはほとんど別人のように見えたものだった。
 シロウト床屋に頭をいじられ、変な髪型されてしまっても、彼女は思ったより明るく振舞ってくれていた。でもその一方で、ずだ袋にしまわれていく自分の髪をさびしそうに見ていたのもおぼえている。
 買い占めなんて冗談はともかく、ひとつくらい帽子を買って帰るのも悪くないかも知れない。大きめのベレー帽なんかだったら、顔や目元や、ついでに変な髪型を隠すのに使えるだろうから。
 それに、靴。
 今レルエッタに貸している私のやつは彼女の足にはちょっとぶかぶかなうえ、ところどころに穴があいてしまっている。新しいのを買うのは難しいけれど、市場のがらくた屋とかを探せば、あの小さな足にあう靴が見つかるだろうか。
 日が落ち、夜光蟲の舞い始めた露店通りを、私はちらちらと視線をさまよわせながら歩いた。靴や帽子だけではない。替えの服とか毛布とか、それらを持ち歩くための袋とか。入り用なものを挙げ連ねれば切りがなく、そしていつもは無意識のうちに諦めていたあれやこれやが、今はポケットから右手を出しただけで何だって買えてしまう。そう思うと、これまで俯いて通り過ぎるだけだった露店の数々は途端に表情を変えて、私を手招きしているようにすら感じられた。
 ――だめだ。これはレルエッタのものだ。彼女の髪を売って得たお金だ。彼女の許可もなく、私が使いこむわけにはいかない。もしこれが逆の立場で、レルエッタが私のお金を勝手に使ってしまったとしたら、きっと私は怒り狂うだろうから。
 ――でも。
 ――飯を食わせてやったり、髪を切ってやったり。この二日半のあいだ、私はレルエッタにずいぶん色々なことをしてやったと思う。その見返りとして、少しくらいなら、私の望むように使ってしまっても、いいのではないだろうか……?
 めまいを感じる。さっきまでのそれとはまた違う、脳みそがぐつぐつして真っ二つに割れそうな感じ。誘惑と自制心とがぶつかりあって、私の頭の中をリングに取っ組み合いを繰り広げているかのようだ。
 手近なところに建っていた餌柱へ、今度はわざと頭をぶつけた。
 てっぺんの皿にとまっていた蟲たちが飛び立ち、私の足元の影がさっと濃くなる。
 ……どうしたものか。
 このまま露店通りで悶々としているのはまったくまずい。繁華街へ繰り出す人やそこから引き返す人たちで、あたりはだんだん目が増えてきている。指先や爪先や額の錆びた皮膚には灰を塗ってきているけど、それでも近距離からじろじろ眺められたら違和感を隠し切れないだろう。もちろん、ぐずぐずしてるぶんだけ人買いに見つかる危険性は増す。
 ああ、そうだ。隠れ場所だってなんとかしないと。いつまでもあの廃墟で暮らせるわけがない。レルエッタの外見がなんとかなったのだから、今夜のうちにも新しいねぐらを探しに行ったほうがいい。マルリカヤードか、ヴィグローク駅あたりの貧民窟か、あるいはいっそ流民街に身を潜めるか。どちらにせよしばらくは野宿だろう。多少お金が出来たからといって、子供ふたりに部屋を貸してくれるような長屋を見つけるのは難しいと思う。それにもし貸してくれたとしたって、いつまで家賃を払い続けられることか……。
 ……いつまで?
『ねえ、お前さん。お前さんがあの髪をどこで手に入れたんだとか、そんな野暮は聞かないであげるけどね、』
 床屋の勝手口から立ち去ろうとしたあのとき、紫髪の女主人は、私の背に向けこう言ったものだった。
『あの髪の持ち主の子がまた売る気になったら――そうだね、2、3年くらいしたら、今度はその子を直接ウチにつれてらっしゃいな。そンときは、歓迎したげるからさ』
“そんな機会こと、絶対あるわけないじゃない”――生まれてはじめて手にした銀貨に興奮する一方、頭の片隅で、私は反射的にそう思っていた。その日暮らしを長く続けている身としては、何年後単位の未来のことなんてまるっきり想像つかなかったし、現実味というものがまったくなかったのだ。
 あらためて、考える。
 私はいつまでレルエッタと一緒にいるのだろうか。
 あの女主人が言っていたように、2、3年後にもレルエッタと一緒にいるということが、可能性としてほんの少しでもあるのだろうか。
 わからない。イメージできない。また人買いたちに見つかったらどうなるかなんてことは容易に思い浮かぶくせ、数年先の自分自身についてはちっとも想像がつかない。長期的な物事に対する思考力が欠けているように感じる。無意識のうちに、あえて考えないようにしていたのかも知れない。
 自分以外の加工生命グラフトロイドとまみえることを、望んでいるつもりだった。
 でも、だからといって具体的に何かをしていたわけじゃない。むしろなかば諦めかけていた。この街にどれくらいの加工生命がいるのか知らないが、きっと誰も彼も、極力他人と関わらないように生きているんだと思う。加工生命が真っ当な人間扱いされないことは、私自身が身をもってよく知っているのだ。
 そして無論、そんな“ご同類”に運良く出くわしたって、その相手と打ち解けることが出来るわけではない。
 ――レルエッタは……。
 ぐりり、と私は餌柱に額を押し付ける。
 そして、思う。
 ――レルエッタは、私を人間扱いしてくれるだろうか。
 ――それともやっぱり、鉄の皮膚を持つ怪物でしかないんだろうか。
 新たに湧いたその疑問が葛藤を押しのける。髪を切りながら交わした何気ない会話。手桶を覗きながら見せた明るい表情。私はもしかしたら、彼女に期待しようとしているのかも知れない。足手まといでしかなかったはずのレルエッタと、打ち解けたいと思いつつあるのかも知れない……。
 だって、その証拠に……、
 どうしてこれだけ色々、ごちゃごちゃと思い悩んでいるくせに……、
 床屋を出てから今まで一度も、私はこの手の中の3ルアイードを持ち逃げしようと思わなかったのだろうか。
 ぐりっ、ぐりりっ。私は餌柱に額を押し付ける。摩擦熱のせいで顔が熱い。あくまでも摩擦熱のせいで。
 ――どうして持ち逃げしようと思わなかったんだろう。
 やろうとさえ思ってしまえば、たやすいことのはずなのに。
 こんな大金を手にすることなんて、きっと二度とないだろうに。
 でも、本当にそれをしてしまったら――レルエッタと話すことはもう、絶対にない。
 鉄化している右の生え際のあたりで最後に餌柱を叩いて、私はばっと顔をあげた。
 もう、いいや。
 悩むのにも飽きた。これ以上ぐりぐりしていると、頭が溶けてしまいそうだ。
 はやく帰ろう。
 はやく帰って、それからレルエッタに聞いてみよう、このお金をどうするのか。もしどうすればいいかわからないんだったら、私も一緒に考えてあげよう。あまり良いアドバイスが出来るとは思えないけど、きっとレルエッタは靴や帽子をどこで買えばいいかもわからないだろうから。それから一緒に何か食べて、新しいねぐらを一緒に探して、疲れたら一緒に眠って、それから、それから……。
 私は小走りに駆け出す。
 露店通りを抜け、辻角を右に曲がる。
 軌道を乗り越え、排水溝を飛び越える。
 大通りをこそこそと横切り、三つ目の小道に入ったところで、最初の雨の一滴を肩に感じる。
 そこで息が止まった。
 誰かがついてくる。
 勘違いではない。ふざけた酔っ払いでもない。およそ二十歩くらい離れた建物の陰、さりげない振りを装いながら、こちらへ近づいてくる男の影。
 私は足を動かす速度をあげる。
 背後の男も早足をはじめる。
 薄暗い路地に足音が響く。青い燐光が頭上を追い抜いていく。
「……っ、」
 全速力に移ると、男も窺うそぶりを捨てて走り出した。
 やばい、やばい、頭の中が焦りで塗りつぶされる。噴きだす汗と降りだした雨が背中を濡らす。あの人買い連中に見つかってしまったのか。積まれたコークス袋を倒しながら振り返る――ちがう、あのチンピラたちじゃない。でもやばいことには変わりがない。露店通りに長居しすぎてしまったか。それとも床屋からつけられていたか。どちらにせよ逃げきらなくちゃひどいことになる。右に左に角を曲がり、私は下町の路地を出鱈目に走る。雨はどんどん強くなる。夜光蟲は翅が濡れるのを嫌う。青白い残光を引きながら蟲どもは軒下や巣箱に引っ込み、周囲はどんどん暗さを増していく。人の姿もどんどんなくなっていく。でも誰かに助けを求めることなんて出来ない。役人にも教会にも疎まれる加工生命を、いったい誰が助けてくれるというのか。
 鉄の足で水溜りを跳ね散らしながら、私はちらりと後ろを振り返って――
 があん、と目の前で鐘が鳴るような音がした。
 衝撃。
 薄汚い壁がものすごい勢いで迫ってくる。避けられない。
 さらに衝撃。
 わけがわからなかった。壁じゃなかった。気がつけば、私は狭苦しい路地の石畳に転がってもがいていた。
「はっはー。捕まえたった、捕まえたった」
「ナイス待ち伏せだぜ、相棒」
 視界がぶれる。ぐらぐらする。必死に彷徨わせた視線の先で、男がふたり、手を叩いて爆笑している。片方はさっきまで私を追ってきたキャップの男、もう片方、鬚面の男の手には、たったいま私を殴りつけたと思しき薪が握られている。
 ――最悪だ。
 ――ひとりだけじゃなかったんだ。
 顔が熱い。右目が真っ暗で見えない。頭の半分がザクロみたいにはじけとんだような感じ。震える指先にも雨水ではないとはっきり知れるこのぬめりは、血か、
「ほーら、やっぱり混ざりもんだ。な、俺の言ったとおりだろ」
 否応もなく前髪が掴まれ、伏していた顔を引き上げられた。遠慮も容赦もない男たちの目がじろじろと私に注がれる。ぐらつく視界よりも肌でそれを感じる。額の生え際や首筋、普段は出来るだけ隠している錆びた皮膚で。
「うわきったねえ。ほんとに人間じゃねえんだな。――どれ」
 右の額を薪の先端で小突かれる。毒のある毛虫を枝でつつくみたいに。かんかんと、自分でもおかしなくらい澄んだ音が聞こえる。二度、三度、四度、
 その次、一拍置いて振り下ろされたのは、家畜を屠るときのような強烈な打撃だった。
 餌柱にぶつかるのとは比べ物にならない衝撃。私はまた地べたに叩きつけられる。レンガの壁のあいだに男たちの哄笑がひびく。
「はっは! かてえかてえ! 手ェがジーンとすらあ!」
 身体のあちこちに何かが次々とぶつけられる。痛くて暗くて何も見えない。多分蹴られているんだと思う。わき腹、背中、肩、太もも。金属を打つ音と肉を打つ音。げらげらという笑い声。自分のものでないような呻き声。血の味。膝を抱える。背中を丸める。左腕をかざして頭をかばう。右腕は――
「おぉ? なあステジ、そいつ、何か隠してるんじゃねえか?」
 どうすることも出来なかった。
 乱暴な手と手と手と手に掴まれ、右腕がポケットから捻り上げられた。
 ちりん、という絶望の音を、耳のすぐ近くで、聞いた。
 かすむ視界の中で銀色が跳ねる。石畳の上を硬貨が転がっていく。そして垢じみた太い指が、それを拾いあげた。
「おっほー! 見ろよジュゼ! ルアメン王様だ!」
「ヒョウ! なんで混ざりもんのガキが銀貨なんて持ってるんだよ!?」
「しかも三枚もだ! 信じらんねえ! 信じらんねえ!」
 男たちが快哉をあげる。銀貨を高々と掲げて、カミサマのお恵みだとか、どんな豪遊をしてやろうかといった意味の言葉を口々に叫びまわっている。
 私のことなど忘れたように。
「だ、め――」
 かすれた声が血とともに漏れた。
 ――だめ、持って行かないで。それは、私のお金じゃないの。あの子のものなの。家族から引き離されて、こんな街に連れてこられて、鉄の怪物に髪を切られて、レルエッタにはもうなんにもないの。だから、お願いだから、それだけは――
「――うあああああッ!」
 痛みを忘れた。絶叫をあげた。近くにいるほうの男の腕にとにかく飛びついた。追ってきた男と待ち伏せしていた男、区別はもう出来なかった。返せ、返せ、返せ、返せ。それだけを念じて私は動く。殺せるものなら殺してやる。どうして私の皮膚は金属しか壊せないんだろう。こいつらの首を鉄柵のように捻じ切ってしまいたいのに。
 抵抗は、十秒ももたなかったと思う。
 壁に投げ飛ばされ、馬糞臭い靴に頭を踏まれ、それからまた、さっき以上に何度も何度も何度も蹴りつけられた。一発ごとに意識が薄らぐのを感じた。痛みはもうあまりなかった。ただどうしようもない、ひどいむなしさが広がっていくだけだった。
「――よぉジュゼ、もうコイツ気ィ失ってるぜ。ペジルテや街警団の連中に割り込まれてもつまんねえしさ、早いとこ風呂屋にでも行ってパーッとやろうや」
「いや、待て。考えてみろよステジ。こんな混ざりもんがまっとうに働いて、ルアイード硬貨なんて稼げるわけがねェ。てこたぁきっとどっかで盗んできたんだ」
「なんだ、泥棒餓鬼か。そりゃあ悪いこったな。許せねえな」
「だろう? だから――」
 涙でぼやけた暗い視界で。
 キャップの男が懐に手を入れ、何かを取り出す。
 雨がつめたい。
 血の味がする。
 かちり、という音を聞く。
 おびえる体力すら、もう私にはない。

 銃口が、
 こちらを向いて、

「――ゴミ掃除だ」

 轟音。








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